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第349号
「身近」
 ある日の新聞、最近の親や教員には、子どもとの関わりに自信の持てない方がふえているという記事がありました。
自信がなくなると、積極的に子どもに声をかけることがなくなっていきます。
その中には、「嫌われたらどうしよう」「誤解されたらどうしよう」などといった感情がひそんでいるのかもしれません。
家庭内でそのようなことが起こり始めると、子にはどのような影響が出るのでしょう。
まず考えられるのが、「お母さんに嫌われたのかもしれない」「お母さんに見放されたのかもしれない」
・・・つまりお子さんもお母さんに対しての自信がなくなっていくという負の連鎖が生じがちになるということです。
 いかに日常の会話が大切か・・・。
ご家庭内で交わされる会話、内容はといえばどのようなものなのでしょうか。
お読みになっている方には、是非、回想されていただきたいのです。
子どもたちにとって触れていただきたくない会話ベスト1は、間違いなく勉強に関してでしょう。
テスト・成績はワーストに入るでしょう。では何を話せばいいの・・・と、悩んでしまう方は、かなり危険度が高い状態かもしれません。
 ふと、その記事の紙面上部にあった記事、EXILEに加入されている方の記事です。
高校時代、不登校になったそうです。
毎日何をすることもなく自宅で過ごしていると、ある日そんな彼を見かねた兄から「とにかく家にいるな、渋谷に行け」と言われたそうです。
ご本人は、かねてから音楽に関心を持っていたそうで、将来は音楽で飯を食うと考えていたそうです。
いざ渋谷へ行ってみると、音楽の専門学校や体験入学など、様々な出会いがあったそうです。
それまでは「学校がすべて」と、なっていた彼にとっては、外の世界を知り、世の中を見る目が大きく変わったそうです。
そのような時がしばらく続いたある日、親から、「将来シンガーソングライターになるのであれば、
高校生の気持ちも分かっておいた方がいいのでは」と言われ、高校へ戻ったそうです。
 お勧めは、「ご家族一緒に外へ出てみては」・・・です。
時折、子どもたちに話すことがあるのですが、
「ワンコイン旅いいかもよ」・・・「片道500円でいいから切符を買って、気ままな旅へ出かけてみよう。」です。
その降り立った駅周辺を散策してみる・・・いろんな出会いが待っている・・・。
「へー、こんなお店があったんだ」「あっ、この家、〇〇さんの家とそっくりだ」「こんなところにお地蔵さんがあるよ」などなど・・・。親と一緒に歩く・・・。子と一緒に歩く・・・。目線を同じにしながら歩く・・・。知らずのうちに会話がはずみ出す・・・。「今度は〇〇へ行ってみようか。」
 学校、会社、ひとつの器の中だけを往復する生活。いつの間にか見えるものはある決まったものだけ、
周りの動きに流され、その動きの中に身を投じ、「これが安心感というものだ」と、負の納得を埋め込んでしまう生活。
 「生きる」・・・本当に生きているのかな・・・。
 先日、ある街を散策する機会がありました。のんびりと行き交う人たちを眺める。
のんびりと街並みを眺める。のんびりと景色を眺める・・・
そのひとつひとつに人々の日々の暮らし、人生が広がっています。生きているなー、と、うなずかせてくれる表情があります。
 「笑顔」です。やっぱり笑顔は、人にしか作ることのできない最高の感情なのだなと気づかせてくれます。
お店の方が、「ありがとうございました」と、笑顔をつくる。
片方、「もう、疲れ切ってしまってそれどころじゃないんだ」といったような表情の方もいらっしゃいます。
アルバイトの高校生くらいの子だったかな・・・。表情を見ていても、動きを見ていても、忙しそうです。笑顔がありません。女の子だったかな・・・。
 そこで私も含め反省しきりです。「働かせていただいて、感謝です。
健康な体を戴いているからこそ、こんなに動くことができます。ありがとうございます。」なんですね。
 いやー、やっぱり旅はいいものだ・・・。
 私自身がかなり神経質な性格なので、いつも働く方々を深々と観察してしまいます。
 そして日常の自分と重ねます。「私ははたして・・・?」いつも思うことが、反省です。
自分を客観的に見つめ直してみる。今の自分はこれでいいのだろうか・・・。
「いやー、それではまずいのではないですか。もっと・・・。」と、反省しか出てきません。
つまり、勉強のやり直しを常々迫られているのです。
 そうなんです。どうか月に一度で結構です。月例会ですね。ワンコイン旅・・・お勧めいたします。
 部活、塾、他の習い事・・・などなど、お忙しいのは100も承知なのですが、
今のこの「忙しいが当たり前」の時代に、ワンコインという「贅沢」を味わってみてはいかがでしょうか。
 身近にいらっしゃる方々の一言がひとりの人生を大きく変えます。内(うち)にいるのではなく、
外にその答えがあるように思います。学校や会社は義務的な要素が色濃く存在します。
外へ出てみてはいかがでしょうか。そして世界でたったひとりの自分を雲の上から眺めることをなさってみませんか。
「あっ、こいつ、またあそこでうろうろして・・・早くふんぎりつけて決断下しなさい。」
と、自分で自分に叱咤激励をなさってみてください。日々反省・・・。





第348号
「兆」
 8月下旬の新聞に、お笑いコンビTIMのゴルゴ松本さんの記事が載っていました。
というより松本さんに関してのことではなく、松本さんがやっておられる「命の授業」からの一部抜粋と言った方がいいのかもしれません。
 その日の新聞には、初面より文科省が学校を介さずに不登校についての調査を行うといった見出し・・・。
ゴルゴさんの記事も35面の3分の2がいじめなどの内容の中に載っていました。
その日は20日、全国の学校では、地域によっては翌日から新学期が少なくないようです。なるほどという気がいたしました。
 で、「兆」です。「し」をつけて「兆し」(きざし)、調べてみると、古代中国において、占いに亀甲を焼いて裂けるときの形を表したのだそうです。
つまり占いによって答えが出る前の「きざし」というわけです。なるほど・・・。
また、中国では、数が多いことを単純に表すのだそうです。だから「兆」。
 さて、ゴルゴさんのおっしゃっている「兆」・・・。学校でいじめに巻き込まれ始めたとき、その「兆し」の中にいます。
そんな時は、今の自分の状態を、目偏を加えて「眺」めてみようと問いかけます。
そして、つらいな、嫌だな、死にたいなと、そこまで追い込まれていると感じたときには、「逃」げていいのだそうです。
逃げるという行為は、生きているからこそできる行為、自分を守るためには学校だって行かなくていい。
一旦逃げて落ち着いてきたら、今度は自分が成長できるように「挑」んでいけばいい・・・。
 兆に目がついて「眺」める。兆にしんにょうがついて「逃」げる。兆にてへんがついて「挑」む。漢字ってすごい。
 続きます。いじめに遭ったときには、本当は自分の意思や思いを言葉にして伝えられるといい。
「意」という漢字は「音」の下に「心」がつきます。
自分にしか分からない心の音を見せよう。ご両親や先生に気づいてもらえるように、手紙やメールで文字にしてみる。
それができないときには涙を流す。涙をながしていたら、きっと、誰かが気づいてくれるときがくるから・・・。
 松本さんは、少年院などへ慰問にいっているそうです。ユーチューブなどでも視聴できるようです。
本も出されているそうです。「あっ、命の授業」廣済堂出版など・・・。
 学校には、少なからず「いじめ」の恐怖に日々おびえながら通っている子たちがいます。
皆が「仲間」、助け合おうといった意識でいられるクラスは数少ないと思います。
子どもたちに起こる、誰もが感じてしまう矛盾がそこにひそんでいます。
中学校へ行くと、それは顕著なものになります。定期テストで現れる「順位」です。
男の子は競うのが好きな生き物であり、(生き物とは語弊があるかもしれませんが)何でも勝ち負けに繋げたがります。
人の歴史でもその兆候は見られます。それが「戦争」です。人と人との殺し合い・・・。
生きるか死ぬか・・・。それに理性を重ね合わせたものが「スポーツ」などになるのでしょうか。
少し極端だと思いますが。いずれにしても戦争でも「勝つか負けるか」、スポーツでも「勝つか負けるか」。
テストでも「勝つか負けるか」・・・。(本来の学びはそうではないはず)
 その中に子どもたちは強制的に放り込まれます。「勉強の世界は競争なのだよ・・・」と。
「あれっ。そうなんだ。小学校のときは、けっこう班発表であったり、みんなで観察や実験、一緒に作品作りなど、
結構『和』の大切さが多かったような気がしていたのに・・・。」
 いじめの心理・・・子どもたちの中では結構単純な行動となって表れます。
いじめに遭わないように常に自分を優位な立場に置く。
いじめに遭う子は「ひとり」の場合に起こりやすい。だから常に「仲間」を作っておく。
仲間を作るには、共有する部分を多く持つ。それには、ある個人の欠点を探り、その部分を批判することで共有がふえる。仲間獲得。
 とくに女子の中に起こりやすい「いじめ」は、今掲げたようなケースが目立つようです。
だからグループができやすい。また、「恥」についても、女子の場合はとくに敏感な反応をしてしまうことが多いかもしれません。
あの子が私に恥をかかせた。だから、許さない・・・怖いですね。
 男の子の場合はかなり単純です。中学1年生になったばかりですと、強いか弱いか、それだけということが多いようです。
だからかなり背伸びをしたり、虚勢を張ったり・・・。
被害に遭いたくない場合は、そっと目立たぬように静かにしてみたり、さもなければ、残るは「成績」です。
いじめ解消法のトップは「頭がいい」です。頭が良ければいじめに遭いにくい。
これも誰もが言葉を交わさなくても暗黙の領海域です。だから勉強する・・・。
そう思いながら机に向かうお子さんはいない、とは言い切れません。
 そのように、大人の世界では「えっ」と思ってしまうことでも、子どもたちにとっては、切実な、大きな悩みになっているケースが少なくありません。
競うことよりも、もっと崇高で尊いもの、思いやり・優しさを、まず、子どもたちの土台にしてあげること。
その上で、世の中って、ついつい人を傷つけてしまうものが数多くあること。
でも、大人たちもそうだけれども、そのようなものに負けないように、日々戦っているのだと伝えてあげなければならないと思います。
勝ち負けは2番目、その前に、今、目の前にいるあなたに出会えたこと。その奇跡に感謝しましょう。
そして、勝敗がついたあとには、相手に「ありがとう」の気持ちをこころから伝えましょう。人としての兆しを常に・・・。





第347号
「資源」
 ある日の新聞に経済学についての説明が載っていました。
自身経済学部の出身でありながら、その主旨を把握していなかったことに冷や汗が出ました。
 経済学の語源は、「世を治め、民を救う」という意味なのだそうです。現代風に訳すと「私たちがうまく生活できるようにする」ことだそうです。
経済学はそのための方法を探る学問ということになります。大きなテーマとしては、限られた「資源」をどう無駄なく使うかということがあるそうです。
 「資源」、とかく思われがちなのは、天然資源、石油や石炭など化石燃料が浮かびますが、
経済学でいうところの資源には「お金・時間・労働力・生産設備」なども含まれるそうです。
 私がその中で気になったのが、「時間」です。
 石油を中身濃く使うことは、省エネとして解釈できます。
いかに少ない量の石油で今までにない大量のエネルギーを作り出せるか・・・。
これは私たちがうまく生活できる方法のひとつになります。
では、時間・・・。時間をいかに少なくして効率の良い結果を生み出せるか? 
製品を作り出す現場では、ロボットなどを多用しながら短時間で大量の製品を作り出すことになりそうです。
 で、人の中にある「時間」という資源、しかも子どもたちにその時間を当てはめてみるとどうなのか・・・。
非常に難しいことがわかってきました。「私たちがうまく生活できるようにする」という経済学の中の「時間」という資源。
 「うまく」という語彙の解釈が個人差となって現れると思います。
ある方は、いかに短時間でテスト範囲を記憶するか。
ある方は、いかに短時間で感動を覚えるか。などなど、子どもたちに当てはめてみると、前者が過半数を占めてしまいがちかも。
学校→テスト→成績という流れは、好成績を取っての感動以外にはなかなか後者の範囲に入れそうにありません。
 幼少時、むさぼるようにして読みふけった絵本。次はどんな物語なのだろう。
次はどのような世界が広がっているのだろう。
このような時間「資源」の使い方が、子にとっては最も相応しい資源のあり方だと思います。
そして、小学校へ行き、活字だけの世界へ旅立ったとしても、けっして変化のない時間「資源の使い方」がつづく・・・。
 今では、スマホやPCで検索を重ねていくと、やがて検索した内容に属したものが数多く現れるようになります。
個人が検索したデータをビッグデータとして管理・完成されたAIが、惜しげもなく次へ次へと候補を掲げてきます。
例えば、私が車に興味を抱いているとして、車関連の検索を多く試みていると、
やがて頼んでもいないのに車にちなんだ内容の広告などが数多く見られるようになります。
ネコの餌に関心を持ち、餌探しをしているうちに、結構な割合でネコ餌の広告が多く現れるようになります。
すごい技術です。私ひとりのために広告が入れ替わっていく・・・。個性ある表示になっていく・・・。
 そうなると、自分が興味を持っている分野にばかり、さらに突き進むことになるのですが、これでは「奇抜な出会い」が乏しくなってしまいます。
少年時代あった突然の「出会い」・・・これこそ貴重な「資源」の始まりの瞬間。
ぜひ、図書館や本屋さんへ出かけられることをお勧めいたします。
「私たちがうまく生活できるようにする」きっかけがひそんでいるように思います。
 さらに新聞内にはこうあります。「市場が大きくなるほど分業が発達する。
すると生産性は向上するが、人は限られた部分のみを見る事になり、考えるという世界が狭くなってしまう。
つまり、分業は人を愚かにしてしまう」・・・と。
 いかにもその通り、これを今の学校に置き換えてみると、極端ではありますが、ある教科ばかり取り組んでいると、
その他の教科との関連づけが乏しくなり、本来の学びから遠のく危険が広がってしまう。
 そこで見えてきたもの。
これは難しいことだと思いますが、ある社会科での授業で、資源ゴミについての学習をしていたとします。
まずはゴミっていつ頃からどのようなものがスタートだったのか。これは歴史になりそうです。
ゴミの種類や、それがどの分野の資源に活用できるのか。
これは科学的な見地に立てば、理科なのかも。そして再利用されたとして、どのくらいのコストがかかり、再三は合うのか・・・。
これは数学科かもしれません。そして資源ゴミの回収率を高めるためのキャッチコピーを考える。これは国語になるのでしょうか。
ついでに、外国人向けへのキャッチコピーへと変換しておく。もちろん英語で。
 ひとつの学習がすべてに広がる。理想なのでしょうね。こうなると問題が生じます。
どの教科でのテストにするか。そうなのです。
テストがなければ、または教科を限定するのではなく、総合的な教科として行うのが良いのかもしれません。
私たちはあまりにも教科慣れしてしまっているようです。
学校へ初めて行ったときから、国語・算数・理科・社会でしたので・・・。
そうすれば入口が広い見地からになりますので、あとはそれに関連した興味へと各自の個性が表れてくるわけで、
子どもたちの取り組みも意欲的になるかもしれません。
 さて皆さん。教科に縛られることなく、自由な疑問をたくさん作って、自由に探ってみてはいかがでしょうか。





第346号
「現行犯」
これは最近のある新聞記事です。いじめを受け、不登校になりながらも早稲田大学へ入った青年のお話。
 Aさんが中学校1年生当時、ある理科の授業でのこと、数人の生徒が先生に不快な思いをさせてしまったそうです。
そのことが担任に伝わり、担任より「心当たりのあるものは名乗り出なさい。」とのこと、で、数人が名乗り出た。
そこへ「お前もだろ」と、他の生徒がAさんを名指しした。Aさんは全く心当たりがない。
それもそのはず、彼らの標的になっていたのです。
で、担任からの一言「おまえだけはみんなの前で手を挙げずに、あとからコソコソと来やがって。
おまえが一番の卑怯者だ!」これがきっかけで不登校になっていきます。
先生を信じることはできない。クラスメイトも信じることができない。
だれもがこのような経験をされれば、学校へは行きたくなくなります。
ただ苦しいのは、不登校になっている本人もそうですが、ご両親はさらに苦しいのではないでしょうか。
それを察する子は二重の苦しみです。家族全員が奈落へと落ちていきます。
担任さんの事実をしっかり把握せずに発してしまった心ないことば。
そして遊び半分であったとしても、クラスのメンバーたちから発せられたことば・・・この両者のしたことは、「ひと」としてあるまじき行為です。
記事にはありませんでしたが、その後の担任の先生の行動がどうであったのか・・・。
中学1年生といえば、ついこの前まで小学生、まだまだこころは発達途上の段階です。
ましてや、親友と呼ばれる仲の良い存在を確立させるには時間のかかる時期です。
複数の小学校から集まってきた子たちが、こころを許し合うまでにはそれ相応の時間を要します。
ではその期間、彼らたちはどのような状態なのか。毎日が不安を伴ったものになります。
100%安心でいられる時間はなかなか現れません。そこで彼らがとるひとつの行動があります。
それが、虚勢を張ることです。いじめられたくない。からかわれたくない。ちょっかいを出されたくない。
そのような行為から逃れるために必死になって虚勢を張ろうとします。「オレはこのくらい強いのだ」・・・。悪ふざけなどがその例です。
常に不安との戦いがひとりひとりの日常に課せられます。
それを解きほぐしていくのが、ひょっとすると担任さんの努めなのかもしれません。
信頼すること、助け合うことなど、人と人が触れ合っていく中で大切なことをじっくりと時間をかけ浸透させていく・・・。
先ほどの担任さんの言動は、全く逆の結果を彼に与えてしまいました。
このように、学校現場は、いつこのようなことが起こってもおかしくない空気が流れています。
教育とは学校とは、とても難しいものだと、あらためて考えさせられます。
本来「叱る」という行為は、原則「現行犯」です。
今まさに目の前で行われていた行為は、人としてあるまじき行為だと、その場でしっかりと伝えることです。
それがその子の中に感情として残ってしまいそうであれば、個人的に先ほどの行為はどのようなことであったかをじっくりと説明すべきだと思います。
特に女子は後者になりがちですので注意が必要です。「わたしに恥をかかせた」になりがちです。
その子の個性に合わせて1対1でゆっくりと語ります。でないと終生「呪い」を受けます。(笑)
先ほどの担任さんの行動は明らかにミスです。担任さんはおおいに反省せねばなりません。
そしてクラスメイトたちも、じっくりと時間をかけ、自分たちがとった言動がどれだけ大きな罪に当たるかを学ばなければなりません。
成長過程にある子どもたちの大切な「学び」です。「人」として絶対にやってはならない「罪」であることを学ばなければなりません。
これが真の教育ではないでしょうか。成績一辺倒になりがちな環境が作り上げた「罪」とも言えるはずです。
はたして現在の公教育機関はどうなのでしょうか。それを見守っていらっしゃる保護者の方々はどうなのでしょうか。
彼の不登校は続きました。そんな彼を救ったのは母の一言だったそうです。「Aが生きてくれているだけで、お父さんとお母さんは幸せだよ・・・。」
我が子の学校へ行けない理由がたとえ何であっても、それは我が子なりの苦しみぬいた果ての行動であるのだから、そっと見守るしかない。
ご両親の深い愛情を感じました。
やがて彼は立ち上がります。背中にご両親を感じながら歩きます。前へ前へと歩きます。そして大学合格。
愛情を感じながら歩ける幸せをかみしめます。
親としての「義務」がそこにはあります。
お子さんを信じ続けることは当たり前、学校での成績が少々悪かったからといって、
その結果を持ち出して我が子に「つらい言葉」を浴びせたとしたら・・・子は居場所をなくしてしまいます。
さて、お子さんが悪いことをしたとき、それが現行犯でなかったとき、他の方から聞いた話であったとき、お母様ならどうされますか。
お父様ならどうされますか。
聞いて、聞いて聞き疲れるまで聞いてあげてください。我が子に信頼を染みこませてあげてください。
新学期が始まりました。毎年この時期、100名以上の子どもたちが自殺するそうです。





第345号
「母の教え」
 PHP7月号に、俳優でタレントでもある柳沢慎吾さんのインタビュー記事がありました。
その中の母がいつも語って聞かせていたことば、『常に笑顔でいなさい。
笑顔でいると、人が集まってくる。仏頂面していても人は寄ってこないよ』だったそうです。
そんなお母さんのお仕事が青果店。ご両親で営んでいたそうで、どんな時でも母は笑顔で働いていたそうです。たとえ高熱を発していても・・・。
そのような母を慕って、多くのお客さんが足を運んだそうです。
 柳沢さんは、「そんな母の教えが僕の根っこにあります。」と、言い切っています。
 そしてもう一人、物まね芸人のコロッケさん、彼の書いた本、『母さんのあおいくま』より、
あせらない・おこらない・いばらない・くさらない・負けない、この5つの頭文字をとって『あおいくま』だそうです。
今でもその母の教えはコロッケさんにつながっているようです。
 母親が日頃、人の悪口や批判を重ねてしまうような、そんな家で育っているお子さんは、ひょっとしたら学校でもどこでも、
気に入らない人の悪口や批判を言っているのかもしれません。
 母親が日頃、上から目線を感じさせるような言動は慎みなさい。
と言っていれば、おそらく、何事にも謙虚で控えめな子が育つのかもしれません。
 何よりも言うだけではない、親がその通り、自らを持って実行されていることが必要だと思います。
きっと、柳沢慎吾さんも、コロッケさんもそんな母の姿を見続けていたのでしょう。
 ことばもそうですが、子にとっては母の生きざまそのものがお手本ということになります。
 であれば、最近特に気になって仕方がないこと2つ、まず1つ目、車を運転していて気になって仕方がない光景があります。
ママチャリに乗りながら「スマホ」・・・。危険を通り越えている状態・・・。
そんなお母さんを後部座席で見ているお子さんは、それが当たり前だと見ながら成長していきます。
ひょっとするとお子さんも成長の暁には、自転車こぎながらスマホ・・・かも。
 2つ目、多くのお子さんに見られる現象です。間違えを極端に恐れすぎるお子さんが多いのです。
『間違えたらどうしよう』『できなかったらどうしよう』が、自らの動きをピタッと止め、固まった状態が続く・・・。
周りの目を気にするあまりに起こる心理です。
 次に登場するのが、川田裕美さん(フリーアナウンサー)、この方の体験談は、母の教えではないのですが、
「~たい」「~たい」という、自分のちょっとした『欲』がらみの時と、そうではないときのエピソードになっています。
テレビ局の入社試験のときに、不合格通知ばかりだったそうです。
「賢く思われたい」「ほかの学生に負けないように、うまくしゃべりたい」などと、自分をよく見せようと、カッコばかりつけていたそうです。
無理しすぎというやつですね。もちろんこの行動の裏には「失敗したらどうしよう」という心理はあったはずです。
 ところが面接官を前に、フリートークを強いられ語り始めるうちに、過去の想い出がリアルによみがえり、
思わず感情が吹き出て「バカヤロー」と叫んでしまったそうです。面接はそれで打ち切り、結果、合格したそうです。
 自分をよく見せようとせず、失敗など気にすることもせず、ありのままの自分を精一杯に出したその瞬間、合格がやってきたのです。
周りの目などどうでも良い、今の自分を精一杯に出し切っていた瞬間があります。
 川田さんの言です。「その後も数えきれないほどの失敗をしましたが、そうやって何度も失敗する中で、身にしみてわかってきたのは、
『自分は、かっこつけても仕方がない』ということです。」・・・中略・・・
「『今の私には、できないことがたくさんある』と、等身大の自分を受け入れること。
わからないことがあったら『知りませんでした。教えていただけますか』と聞くようにしています。」
 柳沢慎吾さんは、お母様より『笑顔』の大切さを学びました。
コロッケさんは、お母様より『あせるな・おこるな・いばるな・くさるな・まけるな』という謙虚さを学びました。
川田さんは、『周りの目を気にしない』を学びました。
 ご3人ともに、謙虚に生きなさいということが共通しているようですね。その謙虚さというものが、実は質問できるにつながると思うのです。
 ご家庭で、お子さんから質問されることはあるはずです。
特にお子さんが小さい頃に「ねー、なんでー。」と、その時についつい返すことば、
「お母さん、今忙しいからあとでね。」これって本当に忙しいのでしょうか。
かなりな確率で「私の無知がバレたらどうしましょう。」(ごめんなさい)が、入っているように思われます。
ご自身の小・中学校時代の「成績」がバレたらどうしよう・・・。明らかにお子さんの目線を気にされています。
 笑顔で、「何なに、お母さんねー今の質問わからないのねー。だから一緒に調べてみよう!」
「うわー、わからないわ。一緒にやろー!」などと、お子さんとひとつになってあげることだと思います。
どんなに忙しくても、「じゃー、〇時になったら調べてみよーね。」と、一緒になる。
ここへ通う子の中に、東西南北がわからない子がいます。でも、もし、お母さんになったら、一緒に学んであげてください。
そうなれば、「こわいよー」の子はいなくなるかもしれませんね。
 なんでもすぐに聞けちゃう子、それこそ学びが楽しくなる子ではないでしょうか。





第344号
「加点式」
 前回の吉田松陰さんが行っていた自由な学び。
では現在の学校であったら、どのようなスタイルを描けば良いのでしょうか。
もし評価をちょっぴり利用することができるのなら、加点式が良いと思います。
現テスト体系ですと100点満点が用意され、そこから間違えた分の点を引く。
間違えが100点分あれば「0点」というわけです。
だからテストを受ける全員が行う方法、選択問題の際、わからなければ「選択」です。
「どれにしようかな、神様のいうとおり・・」かなりの方がご経験があると思います。
わからないのですから本来は「0点」なのに、減点されたくないから、「選ぶ」。たまにまぐれで当たる。
 答えを書く、その際、なぜそのような答えにたどり着いたのか理由をはっきりさせて答えを書く。
そのような方法が徹底できれば、どんな子でも動かざるを得なくなります。
また、動かなければ加点されませんので、じっとしているままですと、何の変化もなし、つまり「0点」のまま。
結論は「動」なければ成長なしです。しかも何回間違えても、それも「0点」のままですが、間違えるごとに人には多少なりとも「悔しさ」が宿ります。
もうひとつ、取り組んだぞという「やったー感」が残ります。
その時の真剣味が大きければ大きいほど、その子の中には大切な何かが宿っていくと思います。
そうなんです。生きてやるぞという、前向きなものが残っていきます。「ちくしょー、今度は合わせてみせるぞ」・・・。
この時点で、他人との戦いよりも自分との戦いが優先されているかもしれません。
ただ弱点としては、暗記、ただ覚えるだけの学びになるとちょっと難しい・・・。出題する側にも課題があります。
センター試験が大きく見直しの時期をむかえているのも、そのためだと思います。
記憶ではなく、解決法をさがす思考力・・・これこそが、生き抜くための知恵のもと。
ダメでもともと、歩みを止めずに間違えがつづく・・・。でもあきらめない・・・。
このような時間の使い方の方が良いことが多いと思うのです。
何よりも、間違えることに対し恐怖心が起こりにくくなります。
それよりも間違えるという「行動」を評価されますから、間違えが評価になります。
 英語などはうってつけの教科になります。何かしゃべらないと相手に通じない。
間違えをしゃべり続けているうちに、そのうちに相手が何か反応をし始める。
それをきっかけとし、次のことばを浮かべじゃべる・・・。また何か反応がある。
その繰り返しが何百個集まって、やがて相手の気持ちがわかるようになる。
このような時にはこのようにしゃべるのだな・・・。留学等でひとりポーンと放り出されたときには、否応なくそのように学んでいくしかないわけです。
生きてゆくためには避けて通れない現場です。
 毎回、中学校の定期テストが近づくと思うことがあります。
各教科に学校からの宿題があり、全員に配られている問題集の〇〇ページまでやってきなさいというものです。
提出はテスト当日・・・。このような宿題が多く見られます。すると、皆一応にそれのみに取り組み始めます。
質問できる子はそれでも救いはありますが、それ以前、課題があまりに多すぎて、質問どころではない子もいます。
そうなると、前向きどころの話ではありません。私の一言、「答え写して良いよ・・・。」
ルール違反なことはわかっていますが、そこは皆まじめさんたち、答えを写す行為は「悪いこと」と映るせいか、なかなか積極的にはできません。
そこで私から「先生が責任とるから写して良いよ・・・。」
 本来の学びとは、階段を上って上って、そこから味わった疲れとともにじわっとくる達成感と発見です。「そうかそんな解き方もあったんだ・・・。」
どんなに多くの時間を費やしても、学びとは、自身、深い感動とさらに先へ行くぞと言う前向きがしっかり残っていることだと思います。
その気持ちを伝える場所が、本来「学校」という場なのかもしれません。
 政府がかかえるこれからの日本をどうしてゆくか、最低でも不景気にはできない。そんなことになったら政権が危ない。
だから世界に負けない国家作りをしよう。そのためには世界でしっかりと戦える人材づくりをせねば・・・。それにはまず学力だ。
OECDなどが行っている世界共通テストなどを利用しながら、このままの学力では、日本は経済力がなくなる。
日本を他の国々と比べることで危機感をあおる。
成績さえ良ければ、有名大学さえ出ていれば、大企業にさえ就職できたら・・・。
ここで置き去りになっているのが、学びから来る「感動」です。
成績至上主義が造り上げた結果優先が、子どもたちの学びからの感動、「わかったー!」を取り上げているような気がいたします。
勉強→競争が当然な気持ちを与えるようになってしまった以上、残念でなりません。
そしてもうひとつ、失われてしまったのが「人柄」です。ひとがら→こころです。
他人を蹴落としてでも勝たねばならない勉強の世界、知らぬ間に、人柄の重要性が後ろへと追いやられているような気がいたします。
今や日本は結構な観光立国になろうとしています。その理由のひとつに「おもてなし」があると思っています。
おもてなしのこころは、相手を敬うこと。自分は一旦ここに置いておいて、目の前の方に想いをつくすこと。
「えっ」それを感じた外国の方々は、おそらく間違いなく「リピーター」になるでしょう。
このようにして思いやりや優しさは、人の心を温めてくれます。
忘れてはならないもの・・・今一度取り戻しましょう。そしてゆっくり加点いたしましょう。






第343号
「沈黙自ら護るは余甚だ之を醜む」
 (ちんもくみずからまもるは、よ、はなはだこれをにくむ)
 吉田松陰の言です。「黙っていてはダメだよ」という意味です。
ここで吉田松陰について簡単に 

-江戸時代末期、長州藩(山口県)で武士の子として生まれる。
やがて20歳を待たずして藩の軍関連の仕事を担い始める。
そこへアメリカペリー率いる「黒船」四隻が来港、その船の大きさに驚き、このままでは日本は外国に獲られてしまう
(既にアヘン戦争の件を学んでいた)と危機感を抱き、アメリカ行き(外国の高い軍事等の技術を学ぶ)を計画、
弟子の金子重之輔とともに黒船へ乗り込むがペリーに断られる。
当時の江戸幕府の政策で、許可なく外国へ行くことは罪となっていたため、そのまま罪人として長州へ戻される。
その獄中で「高須久子」という女性の囚人に出会う。
高須久子の罪は、武家の娘でありながら身分を越えて様々な人々と交流をもったというものであった。
さらに吉田松陰は、獄中にいる人々から、人それぞれに個性溢れる才能を持っていることを学んだ。
その後、叔父が開いていた松下村塾で教鞭をとる。
「身分に関係のない学びの場」として様々な教え子たちを排出する。
その弟子の方々の一部・・・伊藤博文、山縣有朋、久坂玄瑞、高杉晋作など・・・。
 やがて安政の大獄のなか、29歳の若さで江戸幕府によって処刑された。-

 その松下村塾で松蔭が訴えていたことばのひとつが「沈黙自ら護るは余甚だ之を醜む」です。
皆、分け隔てなく言いたいことがあったら何でも語りましょう。
会議の場で黙ったままでは良くないですよ、という内容です。
会議とは今で言う話し合いの場のことです。学校での授業のことです。
 もうひとつ、もう40年近く前の本、以前取り上げたかもしれませんが、
京都大徳寺大仙院の和尚様、尾関宗園(おぜきそうえん)さんの言です。
今でも元気で説法を行っています。著書『死んで生きよ』より・・・
 -学校や会社を訪ねて、玄関を一歩入ると、もうそこでどんな問題があって、
どんなことに悩んでいるかがわかってしまうものだ。
そこの人が机についている状態のとき、このとき机の前と体がくっついていないときは、
ゴチャゴチャと不満を持っており、そのくせミーティングなどで
「何か不満があったら言ってください」と言われても必ず黙っている。
ところが、あとになって、どこか隠れた場所でグズグズ言うのである。
こういう活気のない人間が出てくる原因は、そこの場所が失敗は許さないという態度が強いからである。
失敗してもいい、気楽に恥をかけるという場所では、決してそんなことはない。-(失敗が許される場所が一番いい)
 このふたつのことから共通しているものがわかってきます。
失敗という二文字がなく、自由に発言できること。このふたつの相乗効果で、著名な方々が多く現れていることです。
 先に触れた「高須久子」・・・この方は武家の女性でありながら、
身分を全く気にせず自由奔放に人々と触れ合っていたそうです。
それが当時の法律に触れていたんですね。牢獄に入れられたのはそのためだという研究者がいるそうです。
 吉田松陰が彼女から大きな影響を受けたのは必然だったといえるでしょう。
『人にはみなそれぞれ良いところが必ずあるものだ。だからそれを自ら発掘することのできる場所づくりをしよう。』
松蔭の松下村塾での学びは常に『同じ目線で』であったそうです。
『私もあなたもまだまだ未熟者、お互いに学び合いましょう。』といった姿勢です。
 思ったこと感じたことがあれば、そのままを出すことができる。
合ったとか間違ったとかではなく、自身がそうなのだからそのままを出す。
当たり前のことなのです。それができていたからこそ、伊藤・山縣・久坂・高杉が現れました。
それができていたからこそ、宗園さんの説法が今でも脈々と生きています。
 成績、評価、順位、様々な方々からの苦言を気にしながらの環境は、そのすべてを取り上げてしまいます。
テストがある限り、悪かったらどうしようという気持ちがつきまといます。生きようとはしていません。
逃げたい気持ちです。順位がある限り、下がったらどうしようという気持ちがつきまといます。これも生きようとはしていません。
結果を見せたとき、叱られたらどうしよう・・・ご家族の苦言を予想させてしまうのでは、これも生きようとはしていません。
 吉田松陰さんは、ご自分の塾で小学生くらいの子どもに、歴史上の人物の生きざまをお話ししていたそうです。
しかも一対一の個人授業です。松陰さんは涙を流しながらその方の物語を語っていたそうです。
その懸命な姿に触れただけでも目の前の子どもは心を打たれるはずです。必死なその姿に打たれると思います。『ぼくも必死に生きてみたい。
そしてぼくも世の中のために、人のために生きてみたい・・・』
その気持ちの中には、他人を気にするようなものなどあるはずがありません。
高須久子さんと出会った松陰さん、黒船に乗り込んでいなかったら出会うことはなかったのです。
自分が思うことに正直に生きる・・・。人の目を気にせずに・・・。
出会いって素晴らしいですよね。動かなければ出会いはありません。
歩かなければ出会いはありません。
じっとしているままじゃー、あなたの人生はあっという間におじいさん、おばあさんです。
若いからぶつかれる。若いから失敗ができる。若いから立ち直ることもできます。
さあ、机の前に体をくっつけましょう。生きましょう。






第342号
「忠恕」(ちゅうじょ)
 他人に対する思いやりが深いこと。
 実は私自身、この語彙を知りませんでした。しっかりと「心」が両方の字にあります。
ちなみに心の上にある「如」は、「ごとし」まさにこころそのものという意味です。
「忠」は「まごころをこめる」という意味があるそうです。
 思いやりや優しさは、ほとんどの方が知っている語彙です。
子どもたちの間ではどのくらい日常に浸透しているのでしょうか。
 2月、都内某小学校へそろばん派遣講師としてお邪魔したときのことです。
4日間、4時間と結構な時間をいただいての授業でした。
その中のあるクラスの先生は50歳を過ぎてから通信教育で教員免許を取られたとのこと。
それまでは防衛省に勤められていたそうです。すごい変身ぶりです。
なんでも防衛省では転勤が多いそうで、家族のためにも定住したいという願いのもと、頑張ったそうです。
そして教員の世界へ・・・。
 そのような経歴の方であれば、さぞクラスのまとめ方もバッチリ・・・
といっているような感じがしません。
ある日の私の授業が終わって教室を出ようとした瞬間、教室の後ろの方でひとりの男の子が倒れています。
おなかを押さえて苦しんでいます。そのまわりのは数人の男の子。3年生のクラスでした。
 一瞬ですが、何が起こったのだろうとわからなかったのですが、
どうやらひとりの子が、その倒れている子を蹴ったようでした。
そして、先生が駆け寄ります。「後遺症が残ったりでもしたらどうするの。
治療代を君たちで払うことができますか。」などと話しています。その瞬間を見ながら、私はまたポカンと暫しの時間・・・。
なぜか・・・蹴られた男の子のもとへすかさず駆け寄ることが先なのではないのかな。
先生が被害をかけた男の子たちに説教をしている間も、その子はうずくまったままです。私のこころの中には「あれっ」と、つぶやきが現れます。
 ひとつの洗脳が私の中に広がります。『このような順序がこのク
ラスの常識なのか』・・・そしてわけのわからないまま、教室を出ました。
 一言でいえば『暴力』です。殴ったことになります。
クラスの中にいたその他の子たちも知らん顔をしたまま教室からいなくなりました。
これは日常茶飯事の光景なのか・・・? 訳のわからない、まとまりのない気持ちのまま学校をあとにしました。
複雑な気持ちのまま車を運転します。何なんだ・・・?
 私の日常(授業)の中で、常に訴え続けているものが甦ってきます。
『何が良くて、何が悪いかは自分が決めること。
その決めたことに正直に行動できる人が真の強い人』
 たった今の自分が、自分のやっていることが良いことなのか、悪いことなのか、
それを判断するトレーニングを重ねる・・・。
それがここでの基本形。とくに中・高生たちのクラスは、皆が安心しきって机に向かいます。
誰からも誹謗中傷を浴びない世界、それが全員にわかっている状態。
こんなに安心できるところがあったんだという表情です。
どんなにわからなくても、どんなに易しいところをやっていても、誰も何も言ってはこないし、そんな目つきもな
それぞれが思い思いのところに取り組み、それぞれのスピードで、個性溢れる取り組み方をする。それがあたりまえ。
 新学期が始まり、新しい顔が少しずつふえてきます。
その子たちの多くが、周りの目を気にしながら、そわそわした目線を漂わせながら向かいます。
安心しきっている子たちの表情が日常なので、そのコントラストがとてもよくわかります。
 きっと、私が訪ねた学校の子たちは、日常が不安なのかもしれません。
不安を安心に変える必需品が『強い』です。
誰からもいじめられることのない強い自分を常に漂わすことで、自分を守ることができる。
その表れがいじめのひとつのような気がいたします。私の理想とする『強い』とは真逆になります。
 男の子はとくに競争したがります。勝った負けたをすぐに意識いたします。
勝ちは強い、負けは弱い、だから弱いやつはいじめられて当然だ・・・。
それを打ち消そうとする心の動きが・・・。
 他人に対する思いやりを深めること、このトレーニングが、まず集団生活の場での始まりでなければならないと思います。
さあ初めての学校生活が始まった、テストがあるぞ、
最初から100点が取れるようにしっかりと準備しなきゃ、
就学以前から教育熱心なお母様、お父様の取り組みがあったりします。
負けないでねという願いのもとの就学以前の勉強なのか、学びって結構楽しい世界だよ、
ふーんそうなんだっていう気持ちの時が何ともいえないいい気持ちになっていることわかったもんね。
できなかったことを30分、1時間かかってやっとできたときのあの何ともいえない『ヤッター感』、それが学びの醍醐味ですよね。
この気持ちは高学年の方々。テストで100点が取れたというときよりも、わかったー、できたーの時のほうがはるかに強いうれしさがありますよね。
 わからないと悩んでいる子に、懸命に自分のことばを駆使し、伝える。
やっとの事でわかってくれたときの、あの目の前の子の嬉しそうな表情・・・。
そっちの方がもっと嬉しいでしょ!
 そうなんです。あなたたちにはすでに宿っていましたね『忠恕』・・・ありがとう。





第341号
「急ぐ」
 以前にも取り上げたことがあるのですが、倉本 聰さんのエッセイ集「疚しき沈黙」より、石油についての著述です。
 地球の誕生から46億年、石油が地中に蓄積されはじめたのが約2億年前、
(生物の死骸などが石油化)すでに地球内の石油埋蔵量の約半分が消費されたそうです。
このままでいくと2040年頃にはすべての石油が消費されるのだそうです。
石油を大量に使い始めたイギリス産業革命(18世紀後半)から150年余、2億年かかって地中奥深くで作られた石油が・・・。
 そこで倉本さんの塾が北海道にあるそうですが、そこに来る塾生たちに46億年を460メートルの道をつくり実際に歩いてもらうのだそうです。
その後の記述が少々理解しづらいので、46億年を46キロメートルに変えてみました。
ここ(行徳)から約46キロメートル先は、直線で鎌倉あたりになります。鎌倉までを46億年前とします。
電車で行けば約2時間前後で到着、中世の歴史が色濃く残る街です。
 で、石油がつくられ始めた2億年前が約2キロメートル、ここからですと東西線で約2駅、行徳~浦安間くらいになります。
現在2019年、西暦元年から今までが約2センチメートルになります。
そして産業革命が起こってから・・・なんと2ミリメートルです。
2キロメートルかけて少しずつ蓄積してきたものを、何と2ミリメートルで消費してしまうことになるのです。
 この事実からすると、地球というひとつの生命体の中で、最も罪な生物は「人類」になります。
底知れぬ長い時間を費やしながら築きあげてきたものを人類が破壊していく・・・。
挙げ句の果て、「核」という地球生命体に大打撃を与える物質を兵器として保有し、にらみ合っている有様です。
そういう私も石油資源を大量消費する社会の中で生活しているわけです。
ライフラインは石油なくしては成り立たないものです。
石油なくしては生きる事のできない体・・・。
 必要不可欠な物となってしまった「石油」・・・。
朝起きる、明かり、食事、交通、衣服、学校、勉強、などなど、すべてに石油は形を変え私たちの生活に浸透しています。
 その中で争うように生活している私たちがいます。
 「のんびり」という語彙が死語になったかのような生活、すべて豊かさを求めるが故の行為なのでしょうが、
我が子だけには苦労をさせたくない、だからアリさんのように今からこつこつ頑張って財をを成していく・・・。
その場限りの生活では、やがて冬が来たらキリギリスのように凍えてしまうよ・・・。
 だから脇目も振らず黙々と歩く走る・・・。
しかし気がついたら時は過ぎ、家族団らんを味わうはずだった時間はすでに過去のものに・・・。
 せっかくいただいた命なのだから、その時その時を「しあわせ」を感じながら歩んでみようよ。
そこで邪魔になるのが「欲」なのかもしれません。今日一日、家族が健康で過ごせた幸せを味わう・・・。
小さなことであっても、幸せは自分が決めればいい・・・。相田みつをさんの言葉ですね。
 そんな時の過ごし方を「教育」が受け持たなければならないのではないでしょうか。
幼少のころから、どのような時間の過ごし方が「しあわせ」なのか考える授業。
どのような時間の過ごし方が「生きる喜び」を味わえる過ごし方なのか。
 つまり「ひと」としての生きる本質を実感できる授業づくりをしていかなければならないと思うのです。
 世の中は、経済至上主義、経済発展につながる人材づくり優先のため、あらゆるところに競争原理を働かせています。
その代表が「成績」です。
競わせることで、その中から生まれた勝者にさらに磨きをかけ成長を促し、経済発展に欠かせない有能な人材を造り上げていく・・・。
そのレールの中にしっかりと義務教育は組み込まれてしまいました。
 受験もそのひとつです。
何倍かの確率から、残ったものは勝者、落とされたものは敗者。勝者は敗者の心の内を察するということをしているのでしょうか。
同じ人類でありながら「ざまーみろ」と言わんばかりの勝ち誇った表情を浮かべる子どもたち・・・。
そのたびごとに何かを捨てているような気がいたします。
 私はテストは「毒に近いもの」だと思っています。
1年生、テストを重ねていくうちにやらかしてしまう「悪い点数」・・・これが「毒」です。
これで「勉強はテストのためにある」という固定観念が宿ります。
もちろん100点を重ねている子もご家庭で100点を誉められると、はやり同じ現象になります。
勉強はテストのためにある。で、試しにテストを廃止してみましょう。
子どもたちは勉強をしなくなります。毒を飲まされたくないから勉強する。
 テストがあるから勉強する。テストがなければ勉強しない。
 本来の「学び」、これはどこへ行ってしまったのでしょうか。
「へー、あっ、そうなんだ、それで・・・。」次から次へわき上がってくる学びたい衝動をつくってあげるのが本来の学び・・・。
そんな理想を今後も掲げ続けたいと思います。
 そして、石油が枯渇した後でも、人々が安心して幸せな生活ができるような社会めざして学んでいきましょう。
 その一歩一歩を大切にしましょう。





第340号
「母心」
 昨年、叔母の3回忌の際にあったことです。
叔母方の関係の方で、幼少のころより面倒を見ていただいたというお母さんとその子どもたちがいました。
お母様は最近離婚されたとかで、母親の手だけで子を養っているのだそうです。そこで何やら我が子の成績が芳しくないとのこと・・・。
私が私塾を営んでいると叔父より伝わり、会食の席に声をかけられました。
「この子、恐ろしいほど成績が落ちたんです。」
これだけ聞けば、そうか、かなり勉強嫌いで小学校時代から引きずっているんだな、くらいの予想はします。
きっと学年では底辺をさまよっているに違いない・・・。その子は中学1年生の女の子です。母親のグチは続きます。
「私の安い給料の中から高い月謝を使って、だいたいこの子から塾へ行きたいって言ったから生かせてやっているのに・・・。」
感情はさらに高まっていきます。「この前の中間テストから、今回の期末テストで30番も落ちちゃったんです・・・。」
「はー、なるほど。」と、私のこころの中。てっきり底辺のお話かなと思いきや、「20番からいっきに50番へ落ちちゃったんです。」
「あれ?」と私のこころの中。すかさず言いました。「たいしたもんじゃないですか。」
「いいえ、この子にはいい成績を取ってもらって進学してもらわなければならないんです。
私が脳なしのバカで育っているんで・・・。」「あのー、・・・・・・。」
何を話したか詳細には覚えていないのですが、人生は成績だけではないこと、
友人関係や家庭環境がやさしさや思いやりで包まれていることなど、私特有の持論をお話ししました。
当のお子さんは何やら神妙な表情です。えっ、こんな人いたの。といった表情です。
話は尽きず、ついに私は決め手となる一言を発します。「一番苦しんでいるのはお子さん本人です。
そっと信じてあげることが、一番のお母さんがしてあげることだと思いますよ・・・・。」
すると、その中学1年生の少女の目からみるみるうちに大きな涙があふれ出てきました。
お母さんは連発します。「本当に何もしなければいいんですね。」
「その通りです。そっと見守ってあげることが、この子にとって一番のプレゼントになると思いますよ。
よーし、やってやるぞって、一番燃えているのがこの子じゃないですか。
どのくらい気を抜くとこんなことになるのか、いい経験をしたじゃないですか。
その悔しい気持ちをくみ取ってあげるのがお母さんの仕事。
今回をバネにしてきっと這い上がりますよ・・・。」
 私自身、成績制度や順位制度には不満があります。
しかし、現状から判断すると、その子は勝つ負けるの世界にどっぷりと足を踏み入れている状態です。
勉強は楽しむものではなく、勝負の世界・・・。
そして最も気持ちを理解してもらいたい母親から、初めて会ったどこの誰だか知らないおじさんに自分の恥を長々と語っている。
しかも罵声を付け加えながら。ところがどっこい、私が一方的に子の味方をするものだから慌てている様子です。
「なんて人なんだ。」きっとそう思っていたことと思います。
 そんなこんなで、その家族との別れ際に、私はその少女に一言、「どうだい、元気出ただろ!」・・・・・彼女は言いました。
「はい。」私のとったガッツポーズを真似して返してくれました。
ニコッと笑ってくれました。私はこころの中で「よかった・・・。」
 ちょうどその日は、週末恒例のランチ学習です。生徒だけを教室に残し、やってきた法事。
「ただいまー。」と帰ってきた私を「おかえりなさーい。」と出迎えてくれます。
もちろん私がいなくても彼らはそれぞれ自分のやらねばならないことを自ら探し出し取り組んでいました。
さっそく、その土産話をさせてもらいました。
 家族の中での一番の理解者は、なんといってもお母さんです。
そのお母さんに理解してもらえない子のこころをご想像ください。つらいものです。
「なぜ、なぜわかってくれないの・・・。」子はまだまだ成長期、親に返す言葉もすぐには見つかりません。
「順位」という過酷な社会と真正面から対峙しています。下がったらどうしよう。
落ちたらどうしようと、常におびえた感情が全身を包み込みます。
 人は欲の固まりの生物です。何かにつけ、他人と比べたがります。
自分が勝った、他人が勝った。そして浮かび上がる感情が、「あー、どうしたら楽に成績上げられるかな。」です。
成績さえ上がればいいのですから、学びなどどうでもいいわけです。
そして学校では休み時間となると、あちこちで塾談義が始まります。「私の言ってる塾ねー・・・・。」
 私のところでは、宿題なし、テストなし、命令なしです。ただそれだけで、「やったー」と、喜んでいらっしゃる方もいます。
しかし、ここでの向かい方の理念や私の教育に対する考え方などを徐々に理解する内に、わかってくることがあるようです。
命令される方が楽かもしれない・・・。今日はここをしなさい。今日の宿題はこれです。
などと、自身がやることを前もって決め、指示してくれる方が「楽」だ。支持される方が楽だ症候群です。
 お母様方の感情もそれに似ている部分があるように思います。
口を出す方が楽だ、です。ついつい幼少時からの口出しが癖になっており、何かにつけ、声が出てしまう。
それも圧倒的に褒め言葉ではなく・・・。
 お子さんは日々成長します。体よりも心の成長は著しいものがあります。
子がやがて巣立つときには、全てに近いことを自ら判断し、行動に移さなければなりません。
黙って子の成長を、目を細めながら眺める勇気を学ばれることは必要なのかもしれません。
先ほどの中学1年生の流した涙は、巣立ちに着々と近づいている証拠だったのですね。





第339号
「Warm our hearts, everyone」
 新年を迎え、久しぶりにのんびりとユーチューブに聴き入っていました。
すると歌詞つきの歌が流れてきました。優しいタッチの曲に・・・。その歌詞に惹かれました。
おそらく今までにも聞いたことのある曲だったのだと思うのですが、英語だけでは歌詞まではなかなか把握できません。
 曲の名前は「If we Hold On Together」ダイアナロスさんの歌です。今でも現役で活躍されています。
 その歌詞はすべて素晴らしいものです。ネット上では多くの方々が訳詞をなさっていました。
英語の訳は、その方々の個性が現れるもの、「へー、こんな訳になってしまうのか。」と、感心させられます。
私なりに易しく読み取れて「うーん」とうならされるところを抜粋してみます。
Don’t lose your way (自分の道を失わないで)
Don’t throw it away (人生を投げ出さないで)(あなたが過ごしてきた人生を投げ出すようなことはしないで)
Live believing (信じて生きるのよ)
Hold to the truth in your heart (あなたの真なる想いを、貫くのよ)
Dreams see us through to forever (夢は、いつまでも、私たちを見届けてくれる)
Seek out a star (成功を、追い求めるのよ)
Hold on to the end (最後まで、頑張るのよ)
Warm our hearts, everyone (心を温めましょう、皆で・・・)
かなり長い詩なのですが、今の子どもたちに贈る言葉として相応しいものに感じられたところを抜粋してみました。
これは英語の詩です。
子どもたちにとっての英語とは「教科」、すなわち「評価」です。
目の前の方と意思の疎通をはかる為の大切な言語なのですが、
会話ができるようになって嬉しいという実感より先に「評価」が出てきてしまいます。
昨年暮れに、久しぶりに教え子のひとりが訪ねてきました。
彼女は某大学の英語専攻、そして第二外国語が仏語、そんな彼女が英語教育の現状に異議を唱えていました。
「今の英語は文法優先で・・・私が海外へ行ったときには、現地の方のひとりがmakeの過去形をmaked(本来はmade)と発音していたんです。
でも、しっかり通じるんです。」
たしかにスペルからすると、日本の中学生からすれば「えー、何?」といった感じでしょう。テストならバツ・・。
つまり0点です。これでいいのと思われがちですが、日本でも同じこと。
いつのことでしたか、「わたし、ぜんぜんできます。」などと会話が飛び交っていました。
傍らにいた大学生が「それ、使い方がちがうよ。
ぜんぜんは、ぜんぜんできないのように否定の内容のときに使ったりするものだと思うよ。」といった内容・・・。
あっそうか、と、間違えて使っていてもけろっとしています。そうなんです。
これが大切なのです。間違えを気にしない姿勢を普段の生活の中でも使っているのです。
 いよいよ中学生活に入ろうとしている小学6年生の子たちからすると、
「英語か・・・いい点取れるかな?」といったところ、入る以前からすでに心構えがガチガチになっていると思うのです。
もっとリラックス・・・。
 日本の教育は減点方式、以前の[ねがいましては]にも書かせていただいたことがあるのですが、
100点を頂点として、そこから間違えた部分を差し引いていく・・・。つまりスタートが満点からのスタートです。
一箇所も間違えがない状態がベストです。
ですから、英語を学び始めた子どもたちのほとんどが、目の前に外人さんがいて、しゃべろうとしてもなかなかしゃべれない。
私の英語どこか狂ってない? 間違って使ってない?・・・。
 すべてに優先して「どうしよう、どうしよう・・・。」が先に出ます。
これをお読みになっている方の中学、高校時代を思い出してみてください。
ほとんどの方が今でも英語で話せますかと問われたら・・・。
希にペラペラと英語に堪能な方がいたりすると、留学や長期ホームステイ経験者であったり・・・。
つまり間違え大歓迎をたっぷり味わう時間があったからこその英語なのです。
 まずはスタートが0点、そこから少しずつですが加点していく。
登ろうのぼろうとする気持ちを育ててあげること。
そんな環境を子どもたちにプレゼントしてあげなければ、きっと英語嫌いな子どもたちはなくならないと思います。
 小学校入ってすぐから、国語の時間に先生に当てられて、
「・・さん、続きを読んでください。」などと言われようものなら、冷や汗を流しながらか細い声でボソボソと読み、
「もう少し大きな声で・・・」と、言われ、なかなか出ない声に、読み間違えが出れば周りから冷やかしの「ヤジ」が飛び、
「もう金輪際、声なんて出してやるものか。」と、心は奈落の底へと突き落とされます。こんな想いを一度でも経験すれば、勉強は嫌いになって当たり前です。
 さて、英語を勉強する前にやっておくことがありますよね。
温かい、美しい日本語をしっかりとこころにしまっておくことです。
私たちは日本人です。幸せを感じることのできる、おもいやりを感じることのできる日本語をたっぷりと味わいましょう。
そして先ほど掲げました英語のように、英語をあたたかく迎え入れることのできるような、英文に出会いましょう。
Warm our hearts, everyone こころを温めよう、皆で・・・。





第338号
「恥」
 恥はかきたくない。当たり前のことですが・・・。
 定期購読している雑誌(PHP)、いつもすかさず見る場所が裏表紙です。今月号の題目は「絵は自在に」・・・。
その一部を抜粋します。
  -子どもが描く絵はいずれも天才の冴えがある。ところが小学生になり、
中高生から大人へとなるにつれて、次第に描けなくなってしまう。
うまく描かなければというあせり、恥はかきたくないといった緊張。
あるいは、技法をしらないからという言い訳や理屈が邪魔をして、筆が一向に進まなくなるのである。
・・・(中略)人生も同じで、幼少のころ思い描いた将来は自由自在であったはず。
それが年を重ね、学年の階段を上るうちに、過去の成績や他人との比較、社会の価値観に影響を受けて、
つい思考が窮屈になっていく。失敗作にならないよう汲々としてしまうかもしれない。-
 ここへ通う子たちを見ていても、上記のように本来持って然るべき無邪気さが失われた状態で来られるお子さんが多
く見られます。学校生活の中で行われる「比較」が、その子の元気をどんどん奪っているようです。その子ひとりがそ
うならきっとかなり目立ってしまいますが、結構周りを見渡してみると、同様に元気のない子が現れる。すると右へ習
えで違和感のない雰囲気ができてきます。結果、活気のない場の空気が漂い気味になってしまう。
中学校で見られる授業風景、結構授業中寝ている子が見られます。これもいつもの風景、今始まったことでもないし、
先生方も騒がれるよりましかといった感じ・・・?(先生方にとっては失礼なことを申します。ごめんなさい。)
 比較は子どもたちに常に自分が集団の中で「恥」をかいていないか気にする習慣をつけていきます。
恥をかかないようにするには、動かない・・・じっとしていれば失敗はないし、目立たないし・・・。
その子を覆う「無関心」。積極性はゼロ。やがてやってくる「自分さえ・・・。」常に自分の身の置き位置を気にする・・・。
これがその子を見事なまでの利己主義者へと成長させます。
 先日、歯科医院で、あるやりとりを聞きました。院長先生が若者相手に何やら語っています。
「これは君のポケットマネーだろ、私のところはこれで損害はないけれど、
こんなことやっていたら君自身が身が持たないよ、会社だって知らないんだろ。
だからこんなことはやめておきなさい。いいね。」のようなやりとりでした。
だいたい想像はつくのですが、おそらくその若者営業マンは何らかのミスをし、
その償いとして自らの収入から弁償をしようと考えたのでしょう。
 私はそのやりとりを聞いていて、無性に憤りがこみ上げてくるのを感じました。
「なんという自己中心的な若者なのだ。」
 そのことを後日、授業の際に中学生たちに話してみました。「どう思う、良いことなのか、悪いことなのか。」
きっと、自らの過ちを自らの責任で償おうとするその行動は、中学生たちにとっては「良い行動」と、映っているのかもしれません。
しかし、本筋はまったく逆、「0」点です。
 その若者営業マンは、ある会社の社員、会社の代表としてその医院に来ています。
その中で発生したミス、まず即座にそのミスの内容を会社に報告、そしてどのように対処するか指示を仰ぎます。
その中で、もし自分なりの対処法があればそれをひとつの解決策として発言しても良いと思います。
医院は、彼とつきあっているわけではありません。その会社と契約が成立、金銭の授受が行われています。
にもかかわらず彼がとった行動は会社には隠しながら、自分が犠牲になって解決をするという行動です。
自己中心的行動そのもの、利己主義の固まりです。おそらく若いころから「恥」を最大の恥辱として生きてきたのかもしれません。
「叱られたくない」「惨めな目に遭いたくない」などなど、自分しか考えられない環境の中に身を置いていたのかもしれません。
 子どもが犯してしまった過ちがあったとします。「どうかこのことは親には黙っていてください。どんな償いでもいたします。
許してください。」と、懇願しているようなものです。「親にバレたらどのような叱られ方をするのだろう。怖いよー。」
完全利己主義者ですね。
 ふと、灰谷健次郎さんの作品、「チューインガムひとつ」を思い起こしました。
この作品は、小学3年生の女の子が、年下の子にチューインガムを盗んでおいでと命令し、
それがお店の人にバレて、さらにお母さんにも知られて、お母さんはずっと泣いたままで・・・
その子はどうしたらよいかわからなくて、灰谷先生の前で長い時間をかけひとつの詩を書き上げました。
それが「チューインガムひとつ」です。すごい作品です。関心のある方はいつでもお声をおかけください。
 生きるとはどういうことなのだろう。その子は盗みがバレて、お母さんの苦しみを目の当たりにして、きっと大きく成長しているはずです。
先ほどの若い営業マンはどうなのでしょうか。人として成長できるのでしょうか。
 恥をかき、叱られ、大きくなる。それには周りの方々の真剣な生き様が必要です。
盗みを働いた我が子に、真剣に立ち向かったお母さんは「ひと」です。
さあみんな恥を恐れていたら、お母さんが泣くよ・・・。




第337号
「孤独省」
 別に仮想世界の政治形態を表したわけではありません。現実にある「省」なのです。私もこれを知ったときには驚きました。
 国はイギリス、今年の1月17日に「孤独担当相」を設置しました。現在イギリスでは人口約6560万人。
その中で孤独を感じている人が約900万人いるそうです。割合にして約14%、7人に1人が孤独を感じていることになります。
その中で1ヶ月以上親戚や友人と会話をしていないお年寄りが約20万人いるとのこと。
そのような現実に対し、メイ首相は「あまりにも多くの人たちにとって、孤独は現代における悲しい現実だ。
この課題に向き合い、お年寄り、介護者、愛する人を失った人、
考えや経験を分かち合う相手がいない人たちが抱える孤独に対処するため行動したい」と、話しているそうです。
 イギリスも日本同様、先進国のひとつです。2017年の各国高齢化率は、日本がトップ、
イギリスは24位です。これを見てもひょっとしたら日本で孤独を感じている方の割合は、イギリスより多いかもしれません。
日本政府は調べる必要があるかも・・・。
 懐かしい昭和の風景、夕方になるとあちらこちらで人々が立ち話をしていたり、その近くでは子どもたちがゴムなわ、
めんこ、ベーゴマ、かくれんぼ、ろうせき、駄菓子屋さんの前にも子どもたちがむらがっている。
町全体が人々の生きる姿で賑わいを見せていました。「孤独」などという言葉は死語だったのかもしれません。
 今では、子どもたちは学校が終わっても、そのまま部活で学校、低学年はそのまま学童保育でやはり学校、
夕方の町には、いつもと変わらない静けさが流れています。公園へ行くと、確かに遊んでいる子どももいますが、
ベンチに群がりゲームに勤しむ子どもも少なくありません。それも水曜日など、学校が早く終わったときなど・・・。
町を歩く方々は、健康維持のためのウオーキングや犬の散歩など・・・。風景はいつの間にか大きく変化を遂げているようです。
 昭和の子どもたちの人間関係で当たり前だったもの・・・年の差を乗り越えた自然な関係がありました。
今ではそれは、先輩、後輩という格差をあらわにした表現へと変化しています。
「〇〇にいちゃん、〇〇ねえちゃん」と呼べば、それで年の差を自然に解消した関係が保たれていました。
年上はつねに年下の手本を心がけ、年下は年上を将来の自分の目標として敬っていました。
 ここ(塾)で見られる子どもたちの触れあい方を見ていると、たった1年違っただけでも先輩は先輩、
後輩は後輩、大きな精神的なかべをつくった言葉が飛び交います。学校での対応がそのままここへ持ち込まれます。
 何かつねに心と心の間に「壁」が出来上がっているような、それがまた当たり前のような空気が蔓延します。
同学年同士なら無邪気に成立するものが・・・残念な気持ちが私の中にあります。
おそらく子どもたちも、学年差や年齢差を意識しない、自然体で触れ合いたいと願っていると思うのです。
 常に順位や点数が目の前にちらつき、競争の渦の中で生活する子どもたちにとっては、
目の前の友だちをどこまで信用していいのか、いつ裏切られるのか、
ひやひやしながら学校生活を送っている割合は少なくはないと思われます。
だとすれば、子どもたちも、孤独者の一員になります。うわべだけの関係が、
さも友情なのだと信じ込んでいる子どもたちが多くいるのかもしれません。
 もし子どもたちに「あなたは孤独ですか」と尋ねたら、どう答えを出してくるでしょうか。
テストや順位は、子どもたちの友情に鋭くメスを入れかねない残酷な現実です。
受け止め方はそれぞれでしょうが、普段友人関係にある子が、
いざテストとなると競争相手になってしまう現実、こころも体も成長過程にある子どもたちが、
すべて孤独を一切感じることのない教育を受けることは当然の義務だと思います。
そのような空間には「いじめ」は一切ないかもしれません。
声には出さなくても、日々それを願いながら学校へ通い続ける子どもたちに私はエールを送りたいと思います。
 同時に、お母様方の孤独も想像を絶するものがあると察しています。
日々我が子の成績が気になり、悶々とする時間。かといって、誰に相談しようかと迷う日々。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、いつの間にか我が子の卒業を迎えていた。
果たして私は我が子に親らしいことをしてあげたのかと、思い、悩む・・・。
 それも孤独の現れかもしれません。親らしいこととは・・・。「・・・してあげる」ことではないと私は強く感じます。
 昭和の子どもたちは、放課後のひとときを使って、「あんなふうなお兄ちゃんになってみたい」
「あんなふうな大人になってみたい」と、家族や周りの人たちから多くの影響を受けてきました。理想は身の回りから受け取っていたのです。
 であれば、まさに親が、一(いち)人(ひと)として、我が人生をおおいに生ききることが一番ではないでしょうか。
我が子の前で、まさに人生絶好調!いまが旬!人生を謳歌する姿を子に見せることが、最大のしてやれることだと思います。
お金をかけて・・・とか、苦労して・・・とか、これだけのことをしてやってんだから、
我が子よそれに答えろなんていう「エゴ」はさっさとゴミ箱へ捨てるべきだと思います。子どもは孤独を望んではいません。
 お子さんは望んでいます。「おおきくなったら、お父さんやお母さんみたいになりたい・・・・・」




第336号
「挑む」
 加藤一二三さん、14歳でプロの棋士になり、62年間、現役バリバリの頃は「神武以来の天才」と呼ばれたそうです。
将棋の手(打ち方)には、なんと10の20乗(100000000000000000000)1垓(がい)→(万、億、兆、京の次)、
生活の中でせいぜいどんなに大きくても聞くのが「京」(けい)ぐらいですから、いかに大きな数であるかが想像できます。
人間の脳全体の細胞数が、約1000億個と言われていますので、そこからすると無限の世界と考えてもいいと思います。
 そして1180回、この数字、実は引退されるまでに負けた数だそうです。勝たれた数が1324回、実はご本人、負けの数を誇りにしているそうです。
両方で2504回の対局をなさったことになります。
 とかく勝ちを優先する社会にあって、1000回負けたときには、マスコミが数多く詰めかけたそうです。
このことも加藤さんは日本の社会は健全だと言っています。日本はすばらしい。
 加藤さんは対局中、行き詰まったとき、「ああ、もうダメだ」と決めつけず、別の方向からも物事をとらえ、考え直してみるそうです。
大切なことは「諦めない」ことだといっています。この姿勢、何かに似ているなと思ったら、そうなんです、
数学などで問題を解いているときの心境とそっくりなのです。
 加藤さんの次の一手にかけた時間、過去最大で7時間だそうです。その間、相手も待っていてくれているのですが、
待っているだけではありませんよね。次はどう出るか、相手も同じように考えているはずです。
 負けに誇りを持てること、これこそ真の生きることだと感じました。負けようとして挑む方はいません。
勝つことを前提に向かいます。大切なのは、1対1、正面向いて戦っているということです。そこには逃げがありません。
初めから逃げていたのでは、対局も実現しないし、勝ち数、負け数もありません。本気本番真剣勝負です。
 学びの世界は、本来私は楽しむものと思っています。しかし現実、高校入試や大学入試など、自分自身との戦いが待ち構えています。
そこへ真っ向勝負、自分をぶつけていることは、加藤さん同様、勝ち数、負け数が発生すると思います。
しかし、テストが嫌いだから、入試がイヤだからといって、自分が背中を見せてしまっては、本当に人らしい生き方をしているとは言えるのでしょうか。
 どんな問題なのだろう、どんな難しさが隠れているのだろうと、興味を持って向かうことは、
きっと自分自身が生きてるなーと感じることの出来る瞬間かもしれません。他を一切気にせず、黙々と向かうことは、
将来実社会で生きていく上できっと糧になっているはずです。
 加藤さんの生き方は、「相手を意識するにあらず、自身を最大に意識せよ」と言っているような気がいたします。
「おまえならどう生きる」と、常に問いながら時を刻んでいるような気がいたします。そこには逃げがない、常に前を向いている「人」がいます。
 勉強に挑む・・・私の理念からすると何か矛盾を感じるのですが、現実、
自分自身の成長に利用することはけっして悪いことではないと思います。
私が良くないと思うのは、勉強で勝った負けたと他人と比べっこをしてしまうことです。順位もそのひとつです。
それぞれが違う顔をしているのですから、それぞれの理解のスピードがあり、それぞれの納得があるはずです。
「わかった」といって、そのうれしさにしっかり浸かるのもいいでしょう。家族でそのうれしさを分かち合うことも大切でしょう。
 なぜか一部の保護者の方々は、我が子の間違えた部分のみに執着し、
そればかりが脳裏に残り、ついつい感情をぶつけてしまう方がいるようです。
子からすれば、全く逆・・・ほしいものは精一杯に向かったときの励ましの言葉。
 生まれたばかりの赤子が、気がついたらなにやら言葉を発するようになり、自らの感情を発するようになり、
競争社会(学校)の一員として歩むようになり・・・。
そこで出会った試練に直面、よくやったと沈んだ心を甦らせてくれるはずの家族から予想もつかなかった言葉を浴びせられ、意気消沈・・・。
ぼくの、わたしの味方はどこにもいないんだと、孤独感に襲われる。
 まずは自分から前を向いているかどうかチェックしてみてください。であれば、誰からも苦言はありません。
 微妙ですが、「やってるつもり」は、これ自分から逃げていることになります。
どのようなことかと申しますと、どんな問題だろう、どんな難しさだろう、と、問題に立ち向かうこと、これしっかり向かっています。
実は、向かう前にここんとこまとめておかなければ、ここをもう少しノートに写しておかなければ、
などと、問題に向かうことを先送りしている状態、これやってはいるのだろうけれど、じつは、自分から逃避している状態かもしれません。
 つまり、勝ち負けが何もつかない状態です。加藤さんが打ち立てた、立派な1180回の負け・・・。その足もとにも至っていない自分がいるだけです。
 「負けたことなどないよ」と、言う方がいるかもしれませんが、実は1回も戦っていないからかもしれません。
 それって「ひと」ですか。さて、だめでもともと・・・一歩あるのみ。




第335号
「あなたはひと」
 最近ユーチューブで歴史をよく見るようになりました。歴史好きな生徒たちの影響もあって、あらためて魅了されることが多くなりました。
 そこでは数多くの放映された番組を視聴することができ、その中にハッとする発見があります。
 歴史上の登場人物の中に「英雄」と呼ばれる方々が多く現れますが、そのほとんどが戦い(戦争等)の勝利者です。
中でも旧ソビエト(今のロシア)のスターリンのとった行動に新しい発見があり、度肝を抜かれました。
 第2次世界大戦当初、ヨーロッパではナチスドイツが破竹の勢いでソビエト領内へ進軍を始めました。
その頃スターリンは大規模な粛清を行っており、多くの有能な指揮官たちを処刑していました。その影響もあり、
戦闘に対する軍の統率が出来ない状態であったそうです。そのような状態の中で、兵士たちからは戦闘への士気が失われ、結果、敗退を続けたそうです。
そこでスターリンがとった行動が信じられません。
 スターリンは新たに直属の兵士たちを編成し、戦地で戦う一般兵士たちの後方へと配置させます。
なんと前線で戦う兵士たちが後退をしようとしたら、当該兵士たちを逆に射殺、さらに彼らの家族たちをも強制収容所へ送ると脅かしたそうです。
つまり前線兵士たちは前進をするしか道はありません。逃げ出そうものなら、味方に殺される。前進して勝っていけば生き残れるのです。
さらに家族を盾にされているわけで、100%前進するしかありません。当時のドイツ軍兵士たちは、その戦闘ぶりは尋常ではなかったと伝えているそうです。
 その光景を目に浮かべながら、私はある思いに突き当たりました。
 今の子どもたちに重なっている・・・。
 学校という競争社会の中、勉強で競わされ、部活動で競わされ、結果がよろしくないと家でお小言を頂戴し、
学校では肩身の狭い思いをし、否が応でも勝たなければ意味がないという感情に覆われていく・・・。
部屋では母親が後ろから見張っており、少しでもサボろうものならすかさず言葉の「ムチ」が飛ぶ・・・。
学校では、授業中先生から指名されるも、黙ったままで「はい次!」と無言のまま通過、まわりの視線が一気に突き刺さる・・・。
「私はバカだと思われている。」と、心はマッシロ。
 それでも勝ちは勝ち、その後のソビエト軍は、冬の到来とともに冬支度のできていないドイツ軍を徐々に打ち負かしていったそうです。
今のロシア、プーチン大統領はスターリンをあらためて評価しているそうです。
 何ともしれない感情が残ります。背後からの母親の監視を受けながらも、志望の高校に合格すればそれも勝者なのでしょうか。
ただ空しさだけが私の中で漂います。
 後方で、「安心して戦いなさい。何かあったらすぐに駆けつけて助けてあげるからね。だから伸び伸びと戦いなさい。」
兵士たちは守ってくれるという安心感のもとで生き抜くことができます。
戦争とはそんなものではないと言われればそれまでなのですが、『人らしさ』という原点に照らし合わせれば、
教育という大切な『人づくり』に照らし合わせれば、何が大切なのか自然に答えが出てくると思います。
 この小さな教室の中にも、家族が温かい雰囲気で覆われていることがよく分かるお子さんたちがいます。
その子たちのほとんどが『安心して生活しなさい』という後方活動に支えられていることです。
生活とは具体的な行動のことではなく、生きているのだと活きた感触をこころが実感することです。
活気に満ちた前向きなこころを手にすることです。
それには家族のあたたかい慈愛に満ちた応援が必要です。応援とは見守ることだと思っています。
じっと見守ること、「どんなに苦しいことがあっても安心して生活しなさい。」という気持ちを子が受け取っていることだと思います。
 家族皆が仲が良く、家族優先で事が運ぶ。いつも団らんに笑顔が絶えない、笑い声で溢れている。
だからどんな失敗でもどんな出来事でも遠慮なく話すことができる・・・。
 「うん、私、家族のために頑張る。だって恩返ししたくなるもの。こんな家族の中に加えてくれた家族に、ありがとうを届けたいもの・・・。」
 歴史はすべての人たちにそれぞれ作られていきます。
いつ、どこで、なにをしたか、誰も見ていなくても当人の心にはしっかりとその行為が歴史として刻み込まれ、
それは当人が『生』を全うするまで残っていきます。たとえ、小さな過ちであってもそれは消えることはありません。
たとえ小さな『うそ』であっても、その事実は残ります。そんな弱い生き物たちの集団が『人』なのかもしれません。
それを大きな気持ちで許し合える最小規模の集団が家族なのかもしれません。
 「今日ね、わたし学校でこんな事しちゃった。ダメだよね、こんどはしっかり出来るように頑張ってみる。」
 そんな会話があっちからこっちから飛び交う家族たち・・・。成績ってちっぽけですよね。勝ち負けってちっぽけですよね。
それより何より、勉強って楽しいですよ。歴史って楽しいですよ。新しい発見、これからの人生におおいに役立つことがたくさん埋まっているんです。
ありがとう。




第334号
「助け合いたい」
 今年のキャンプ、初めての5泊6日と、例年より1日増やしての実施となりました。
おそらく参加者皆が感じているのが、「これで・・・」と思うくらいにあっという間の6日間であったと思います。
 このキャンプ、始まったのが35年以上も前のこと、そしてお世話になっているキャンプ場も全く変更することもなく今に至っています。
ですからオーナーさんや奥さん、そしてそのお子さんたちもそれなりに年を重ねてきました。
 大きく変わったこと、私も含めて見た目がずいぶんと変わったこと(老けたー)と、もうひとつ、気温です。
 お世話になり始めたころは、夜間、雨でも降ろうものなら、寒くて寒くて、
トレーナーの上にウインドブレーカーを着て、さらに靴下をはいて、それでも寒くて「く」の字に折れ曲がり、膝を抱えて寝ていたことです。
それくらいに気温の変化は大きくなっています。
この夏は、裸足で上下トレーナーで充分にあたたかく、それでも長袖ですが、毛布1枚で充分でした。もちろん靴下などとは無縁です。
 虫も全くと言っていいくらいにいないのです。
明かりをつければとたんに集まってくる蛾やその他の虫たちもたまーにくらいです。
 キャンプを始めたころは、恩師に雇われていたので、他団体に漏れず期間中の計画があり、それに則って実行されていました。
ハイキング、花火大会、食事もこちらで用意、などなど、
他がおこなっている「それ」と、同様のものでした。そして独立、私が私の教室の子だけを連れて行くようになってから、変化をつけました。
 「勝手に生きろ」です。
常日頃、準備された計画された生活(学校)を送っている子どもたちに、とにかく食事から、寝る時間から、起きる時間まで、
そして日中どのように生活するかまで自由に生きてごらんというスタンスに変えました。
5~6人に分かれた班ごとに、夕食のメニューを考え、各班の買い物係をスーパーまでは私が連れて行きますが、
そこからは彼ら自身が買い物籠片手にお買い物です。そして帰ってくると班ごとの夕食づくりが始まります。
失敗しても(まずーい食事)、それを食べなければなりません。
 そんなこんなで今に至っております。
 今年のある1日、中学生以下たちで、自由な食事作りが始まりました。メニューは「ギョーザ」。
ギョーザ作りで大切なのは、具もそうなのですが、キャベツから出る水分をどう除去するかにあります。
もうかなり前のことですが、一時期、私もラーメン店を手伝っていたことがあり、
そこでギョーザの水切りに機械を使って絞っていたのを覚えていましたので、
そこはアドバイスさせてもらいました。ちなみに炊飯は薪を使って私の担当。釜です。
 結果、大好評の内に完食・・・。子どもたち皆、作る満足感と食べる満足感を同時に味わうことができました。
 そして夜も深まったころ、誰が誰となく肩をもみ始めました。するとそれが連鎖していき、
全員参加での肩もみのつながりが出来上がりました。
その時私は彼らの正面で表情を見ていたのですが、後ろで揉んでいる子たちは満面の満足感の中に浸っているのですが、
先頭の子の表情がどうも冴えません。一瞬ですが、どういうことなのかと戸惑いました。
しかし、すぐに気がつきました。先頭の子は誰の肩も揉んではいません。ですから後ろから揉んでいただいていることに、
どう感謝したら良いのか戸惑っているのです。
「えー、私だけ揉まれているだけで誰の役にも立っていない、どうしよう・・・。」といった表情なのです。
 すかさず私は、「はい入れ代わり-。」と叫び、肩もみの一本のつながりは、先頭の子が背後へ、
少し時間をおいて、また先頭の子が背後へというように、入れ替わりながらの肩もみになりました。
 皆、人の役に立ちたがっているんだな。皆そうなんだね。感動が私の中に溢れてきました。
 普段の生活の中で、人を助ける喜びを味わいながら生活できているのだろうか。
人の役に立ちながら、そしてそこから「ありがとう」をいただきながら生活しているのだろうか、
言葉にならない「ありがとう」だって同じこと、他人から感謝の気持ちをいただきながら生活しているのだろうか。
 子どもたちは「人の役に立つ」というものに飢えているような気がしてなりません。
 ある夜、花火をすることになりました。私は花火セットを子どもたちに渡し、
「すぐに配れるようにほどいておいてくれる?」と、小学生たちに頼みました。
あっという間に花火の束ができました。そして、花火大会-!といっても10数人での手持ち花火大会、こぢんまりしたものです。
すると、ある子が大きなマシュマロを持ってきました。いや、もらってきました。
どうしたのかと尋ねると、同キャンプ場へ来ていたとなりの家族のお子さんに花火を配ってあげたら、
お礼にってマシュマロをもらったというのです。
 私はビックリ、内輪の、この教室の子たちに配ってもらおうと頼んだことが、
他の家族へも配ることだと受け取っていたその子に、こころから感動を覚えました。
 そうだよね、花火はみんなで楽しむものだものね。人に何かしてあげて、そして喜ばれて、
ありがとうという感謝のこころをいただいて・・・・あなた方こそ、立派な本物の「ひと」だよ、今年もありがとう。






第333号
「過程」
 サッカーワールドカップが賑わいを見せる中、ある日のテレビ番組に本田選手が出ていました。
3回連続の出場には少なくとも8年以上12年近くの歳月を要します。
その間、本田選手はいくつもの挫折を味わいながら今に至っています。その中で興味深い一言が・・・「失敗は必要な過程」
 思わず書き留めました。
 プロサッカー選手を目指している子どもたちの数は相当なものになります。
その中のほんの一握りの子どもたちが、日の目を浴びていきます。宝くじに当選するのと同じくらい、その確率は小さなものです。
 本田選手と言えば成功者のひとり、誰もがそう感じているはずです。
その彼が、今の座を手にするまでに得たことばが「失敗は必要な過程」
 日常私たちは、多くの情報を手にしています。いつの間にか、ある錯覚に陥っています。
それは、成功者ばかりの情報が入ってくるということです。
特にテレビの場合は、熾烈な視聴率獲得の中にあっての番組ですので、見て楽しい、見て感動、見て感心・・・
などの効果が当たり前になります。そうなると極々自然なことなのですが、
失敗者のドキュメンタリーよりも成功者のドキュメンタリー、失敗の物語よりも成功の物語になります。当たり前です。
常に私たちは番組を見終わったあと満足感を得るようなTV局の編成を目にしているのです。
誰でも自分の応援しているチームが負ける試合を、わかっていながら楽しそうには見ないはずです。
 さて、子どもたちはそのような環境の中で、常に「勝つ」を夢見ながら、意識しながら日々を送っています。
 自然と身についてしまう感情があります。「負けは良くない」「負けは醜い」「負けは格好悪い」・・・。
 同時に子どもたちだけではない、お母様方にも身についてしまう感情があります。
「成績が下がるは良くない」「点が悪いは格好悪い」「勉強しないは・・・」すべて成功を当たり前にした感情の発生かもしれません。
 子どもたちは「負ける」を恥ずかしいこと、「間違える」を悪いことというように、あってはならないこととして認識し始めます。
それを身近ににいる方の助長する一言がさらに拍車をかけます。「あんた、恥ずかしいことしないでよ。」
「がんばってね」(頑張って悪かったら、頑張っていないことになる)・・・子はそのように考えます。
やがて、間違えることが怖くなり、こころが固まり始めます。そして勉強が怖い・・・。
 失敗から学ぶことの重要性、失敗から身につくことのいろいろをきめ細やかに伝えることが真の教育であるはずです。
失敗は成長に絶対に必要な過程なのです。本田選手が口
にしたことばは、子どもたちが、お母様方が、必ず知っていなければならないことのひとつだと思います。
 「負けても絶対に人を恨んだりしてはダメですよ。」
「成績が悪くても精一杯だったのなら、その気持ちが大切な収穫なのよ、また今度、また今度と、歩き続けようとするこころを育てようね。
お母さん応援するからね。」
 最近あった、某大アメリカンフットボールのコーチが、問題を起こした選手に言っていた一言も、私の中には大きな傷として残っています。
「優しすぎるところがダメなんだ」・・・
 私は体が震えるくらいに憤っていました。
 優しさというものは、人が持ち得る他の生物にはまねのできない大きな宝物だと思います。
家族だけではない、友だちにも他人にも遠慮なく使うことのできる『しあわせ』を感じさせることのできる行為だと思います。
手をさしのべることもそうですが、そっと見守るというやさしさもありますし、たった一言のやさしさもあります。
「バイバイ」分かれるときにするあいさつもやさしさのひとつ、また明日逢いたくなりますよね。その総称が『おもいやり』です。
反面誰もが持っている当たり前の感情があります。
『欲』です。
勝ちたいもそのひとつです。その欲をひっくり返すと、思いやりが生まれると思っています。
つまり、常に『欲』と『おもいやり』を両方抱えながら日常をすごしているわけです。
欲を捨てる方法があります。『勝つ』を自分だけに当てはめることです。
相手に勝つのは結果であって、喜ぶべきものではなく、自分に勝つことができたと思うことが本来の『勝つ』であること。
であれば、人を恨むこともなく、常に他人に優しい感情を持って接することができますよね。
 ここに通う子たちよ、優しすぎる人になろうね。
優しすぎるからとなりの子にいつもニコってしてあげられるものね。優しすぎるから譲ってあげられるものね。
優しすぎるから家族の方たちに楽してもらえるよう手伝えるものね。
優しすぎるから、勝っても負けても目の前の子に、ありがとうって言えるものね。
 きれい事なのかもしれません。
しかし、子どもたちがやがて世の中の嵐の中に身を投げるときが来たときに、
やさしさという大きなバリアを身にまとい、いきいきとした生活を送れるよう応援し続けたいと思います。
 さあ、目を細くしてじっと見守っていよう。




第332号
「おならが書ける」
 『ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから
 もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします ほんとうにおなじことはしません
 ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす
 これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから
 やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします』
 これは3月14日に起こった、目黒女児虐待事件の5歳児が書き残したノートです。
 恐怖の中で書き綴った命がけのことばです。怖かったことでしょう。
 そのような境遇の中に生まれてきた命、まさか5歳で天国へ旅立つとは思っていなかったことでしょう。
 あらためて『家族』という2文字を考えてしまいます。
 ダメでいいから、ビリでいいから、0点でいいから、成績が下がっていいから、家族団らん、ひとつテーブルを囲んで笑顔で食事をとる・・・。
当たり前といっていい風景を感じぬまま旅立った・・・。
 この子のノートから感じられるもの・・・『脅迫』
 「〇〇できなかったら〇〇だぞ・・・」親からの容赦ない脅迫・・・。食事という体罰によって命が奪われた虐待の中にある『脅迫』。
 実はこれに近いことが日常に多くあるように思えてなりません。
 ある中学生の言です。「〇〇までに提出できなかったら、内申に響くぞって言われた。」
これは宿題の提出期限を越えた場合のことを言っています。
「今度のテストで成績が悪かったら、点数分だけ校庭を走らせるぞ」
「小テストで〇〇点以下の者は放課後残すぞ」などなど・・・。これを聞いた生徒はやはり怖かったそうです。
そしてそれが、その情景が、後々まで色濃く残ってしまいます。『トラウマ』です。
 なかなか取れません。ふっとした瞬間にこころの中を『ヒヤッ』と駆け抜けていきます。
心は固まったまま、他を受け入れることの出来る状態ではありません。
もしそれが授業中であったなら、その時の先生からのことばは全く入ってきません。
その『ヒヤッ』の源が目の前の先生であったなら・・・・。やがてやってくるテストでの結果は・・・。
 子どもたちは真剣に生きようとしています。しかし、その気持ちから逃れようとして・・・悪循環ばかり・・・。
 家庭でも『脅迫』に似たようなことが結構多く見られるのかもしれません。
その過半数は学校での成績にまつわるものだと言っても過言ではないはずです。
「あなた、今度のテストで悪かったら携帯取り上げるわよ・・・。」逆もあります。
「今度のテストで成績が上がったら、〇〇買ってあげるからね。頑張ってね!」
 親の心理からすれば、励ましているつもりなのでしょうが、子からすると、じゃー下がったらどうなるのだろうと想像してしまいます。
 さて、成績とは何なのでしょう。私はいらないものだと感じてしまいます。
ある副産物であって、一握りの方たちが興味を持って行っていることなのでしょうくらいの楽観的な受け取り方が良いのだと思っています。
 子どもたちと触れ合うようになって40年が過ぎ、
4けたにものぼる子どもたちの親子関係を極々客観的に眺めていると、
なぜか成績に非常に熱心な親御さんの家庭にいるお子さんは成績が低いのです。
(成績のことは触れたくありませんが)
 そして共通して言えることが、親子の信頼関係が極めて殺伐としていることです。
人と人の中になくてはならないもの・・・『信頼』が軽薄です。
 その逆、「私のお母さん、何も言わない。どうせ私の子だから期待はしていないわよで片付けられてしまう。」
そのような家庭環境下の子は、なぜか実にまじめに向かっているのです。そして性格も穏やかです。
 あるお子さんの詩があります。灰谷健次郎さんの著作『せんせいけらいになれ』より、
   
『おなら一家』2年 おおひら しずお
  おとうちゃんは まい日 ごはんをたべる前に ぷちんとおならをおとす 
「おとうちゃん おならを こかんとき」と おかあさんがいう
  かおをあらいにいったとき おとうちゃんはまた ぷすーと おならをこいた
  「そないに おならをこぐなよ」と こんどはぼくがいう
  あさごはんのとき とうちゃんは また おならをこいた すると おかあちゃんもつられて
  ぷーんとおならをこいた こんどこそは みんなのみんながわらった

    結愛(ゆあ)ちゃん、こんな家庭に生まれたかったね。安らかに・・・合掌。





第331号
「はりがね」
 時折、灰谷健次郎さんの作品からヒントをいただいた内容を書かせていただいております。
そこから一言、「今の子どもを見ていると、自立のための試行錯誤というものを、ほとんど認めてもらっていないようである。
子どもたちの不幸がそこからはじまっているのだけれど、そのことに気づいている大人が少ない。つらいことだ。」(灰谷健次郎の発言
<6>生きること・感じること)とあります。全く同感、「あなたはこのようにしなさい。」
つまり「~しなさい」という命令調のものがどこからか多く発生しているようです。
そのことが徐々に子どもたちの自由な発想を防ぐことになってゆく。
先ほどの本「灰谷健次郎の発言」は、1999年の発行のものです。
20年近く経った今でも違和感を感じない現在に通用する発言だと思います。
つまり教育界は20年前とあまり変わっていない・・・?
 次につい最近の著書です。「道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔」(佐々木 亨)、その中の一文です。
日本ハムファイターズの栗山監督が、大谷翔平に6回確認をしたそうです。
その最後に「なんで今、アメリカに行かなければならないのかを俺に説明してくれ。」と、彼の返事です。
「成功するとか失敗するとか、僕には関係ないんです。それをやってみることのほうが大事なんです。」
 この文を目のあたりにしたとき、私はひょっとして彼のご両親は灰谷さんのこの著書をお読みになっているんじゃないかと・・・。
 たしかに人生を失敗させたくない。
だから幼少の時から、あれもやりこれもやり、何とか有名大学へ入ってもらって、大企業へ就職し、
何不自由のないしあわせな家庭づくりをしてもらいたい。お金には不自由しない人生を送ってもらいたい・・・。
(少しだけれども、周りへの見栄もちょっぴり・・・?)
 自らの意思を最優先して生き抜こうとしている。他人がどう思うかなど胸中になし。
一見「わがまま」と思わせるかもしれませんが、今の子どもたちに、若者たちに最も欠けていることかもしれません。
では、大谷翔平はいつそのようなこころざしを抱いていたのか。
 これもつい最近、有名になりつつある大谷君の『目標達成シート』、webで検索してみてください。
「野球が好きだから」、これが彼の単純明快な本音、やるからにはてっぺんを目指したい。
その思いを達成するための一手段が目標達成シートです。
 目的があるって、強いのですね。自らの意思があるって強いのですね。
この著書に中にあるもうひとつの惹かれた文があります。彼の母校である岩手県花巻東高校の佐々木監督の言です。
「今、世の中では自主性だとか、自由だとかよく言われていますよね。
もちろん、子どもたちが自らの考えのもとで行動することは大切なことです。
でもやっぱり、子どもの時期は、ある程度の矯正も必要なんだと、盆栽を通して感じました。」(中略)
「あるとき、盆栽の先生に言われたことがあります。
手塩にかけて育てた盆栽に絡まっている針金が、今は成長を邪魔している、と。
針金があるばかりに、縛りつけられている枝が成長を止められている。」
と。ある程度のタイミングで、矯正していた針金を外していけないといけない。指導もそうだなと、私はつくづく思いました。」
 タイミング・・・それを逃がさないこと。指導者はそのベストタイミングをつかむために、しなければならないこと。
見守ることだそうです。いつも気にかけること、それによって成長しようとする子は、
まるで弓矢から発せられる矢のように飛び出してゆく・・・。
 口から先になってしまいがちな保護者の方は多いと思います。
見守ることが、我が子のロケットスタートを見定める大切なひとつだと感じます。
 見守る・・・観察の一部かもしれません。ついつい出しがちな一言を抑えながら、同時に以前とはどこが変化したのだろう。
このままでいたら、どのように成長するのだろう。あの子の心理状態は、前向きでいるのだろうか。
などと、体の変化、心の変化をそのたびごとに観察すること。そして適切な助言・・・。
 そして監督は最後に言い切ります。
「ただ、大谷の場合は、初めこそ大きな器を用意してあげましたが、針金をかけることもなく勝手に育っていきました。
彼にとって大事だったことは、こちらが邪魔をしないこと。針金をかけないことなんです。
大谷が持つもともとの器が大きすぎて、私が『かけられなかった』と言うほうが正しいかもしれませんが」
 さて、針金をかけすぎている方はいらっしゃいませんか。ほんの少しのことでもすぐに針金をかけてしまう方はいらっしゃいませんか。
 大海原を自由に駆け回る「舟」を、ただ見守る・・・。
 さあ君たち、自由に駆け回っていいんだよ。じっと見守っていてあげるから。




第330号
「減点法」
 いつでしたか、「日本人が英語が話せない最大の原因は、学校教育にある」とどなたかが言っていました。
そのわけとして、減点法が良くないと言うことだそうです。
 日本では当たり前となっている減点法(100点を頂点として、そこから誤答分を減じていく)、
その方法だと、英語を話そうとしても間違えることに恐怖心が湧き、なかなかことばが出てこなくなってしまうのだそうです。
 たしかに目の前の相手に自分の感情を少しでも早く伝えようとするときは、主語→述語などと、考えている暇などありません。
とにかく単語を並べる・・・。そして相手の目を凝視し、訴える・・・。「えー文法だと」・・・などと悠長な態度はとっていられません。
 英語は言語、『目の前のひとに伝える』が成功すれば良いわけで、そこまで行き着くのに、何をどうしゃべろうとかまいません。
目の前のひとは首をかしげながら、「えっ」「えっ」・・・。やがて、「そうですか。」と、伝わるときが来る。その時のうれしさや・・・。
で、伝わるまでどのくらい間違えたの・・・数え切れないくらい・・・。といった感じです。
きっと、これをお読みになっている方も、赤ちゃん時代へさかのぼれば、あっちこっちと、ことばを取り間違えながら今に至っているはずです。
 でも、今の教育制度の常識にあてはめると、どうやら減点法が当たり前・・・。で、犠牲になるのは子どもたち。
 英語の発音にしても、小さな声しか出せない子がほとんどです。
全員で発声するときはあれだけ大きな声を出していたのに、ひとりで発声するとなると・・・。
「あれっ、声出てるの?」・・・間違えたらどうしようという減点法特有の恐怖心がすべてを覆ってしまうのです。
 前回の本田宗一郎さんの名言、「成功とは99%の失敗に与えられた1%だ」
同様、失敗を恐れず、なんだかんだと、ことばを並べ続けた結果通じたわけですから、それは大成功だと言えます。
しゃべったひとは、その達成感に感動し、ますます前向きに取り組み始める・・・。好循環の現れです。
 教育とは、そのようなところに重点を置くべきではないでしょうか。まず失敗から始める。
失敗からスタートするわけですから、それが当たり前、だれも誹謗中傷するものはいません。
そして答えが合う確率もとても小さい、これも当たり前。それが学ぶこと、それが勉強、
様々に考え、様々に立ち止まり、様々に跳ね返され、のたうちまわったあげくにやってくる成功・・・。
それが学校という場なのだ・・・。
 テストがあっても、全部できると100点は必要ないと思います。
これは採点者側の都合であり、保護者側の都合なのかもしれません。
本人にとっては「不安の助長」が大きく、「やる気の助長」は少数派なのかも・・・。
 子どもたちは、合う合わないにのみに固執します。ですから、選択問題などは必ず分からない場合、くじ引き解答を行います。
「どれにしようかな、神様の言うとおり・・・これにしとこ。」そしてテスト返却、「やった、合ってた。」
 学びでも何でもありません。「オレって神がかってるじゃん。」で、一件落着。
 「今日、これ学んだら次がどうなってるかますます知りたくなっちゃった。」
「この問題が解けた、で、もっと難しい問題ないのかな。」すべて前向きな心があります。
そのような前向きに生きようとするこころを育むことこそが、学びであるはずです。
そんなこころをくすぐってあげることが、我々大人や教育に携わるものたちの努めではないでしょうか。
 ここ(KYOWA)は学年撤廃です。ある学年では、ここまで・・・。
というのは文科省が作成した学習指導要領のこと。そのレールに従い、学習を進めていく場が学校です。
子どもたちの持っている、向上心や探究心は計り知れないものです。
だったら行けるところまで行ったろかというのがここでの取り組み。
算数の計算にしても、分数・小数の計算が終了すると、すかさず「数学やってみる?」と、誘惑します。目が輝き始めます。
こころが前を向いている証拠です。そしてはじめた数学、中学1年の正負計算・文字式計算・方程式計算、
それが終了すると、2学年の数と計算・連立方程式計算、それが終了すると、
3年生の展開・因数分解・平方根の計算などなど、どんどん進みます。
気がついたら、中学校3年間全ての計算分野が終了します。それでいいと思っています。
 その子の前向きな気持ちが今までにない続き方をしたのですから、立ち止まることなく歩み続けることができた、
その事実が、その子に自信と勇気を宿したことになります。「ひょっとしたら、私って結構やれるひとかもね。
これからも何でもこつこつ取り組みつづけてみよっと。」
 その子にとっては、こつこつと勉強に取り組むことで努力すれば何とかなるものだ、
という諦めない気持ちや継続する気持ちを手に入れたのです。
大人になってから必ず必要とする「こころの土台」を手にしたのです。山を登り切ったぞという達成感を手にしたのです。
まさに、「人生」という長い旅路をみごとに成しきったという達成感に近いのかもしれません。そこにはテストはありません。
評価もありません。生きることの真の意味を感じ取った方だけが感じることのできる満足感だと思います。




第329号
「成功とは」
 ホンダ技研工業の創始者、本田宗一郎さんの名言のひとつに「成功とは 99%の失敗に与えられた1%だ」
というのがありました。
 前回ご紹介した中江有里さんの記事は、パナソニック創業者の松下幸之助さんが創設されたPHP研究所発行からのものです。
ご両人ともに、貧しい生活からのスタート。一代で大会社に育て上げた苦労人でもあります。
 「成功とは」・・・。子どもたちの中では、成功は「良いこと」、失敗は「悪いこと」として、自然のうちに判断が出来上がっているようです。
当たり前と言ってしまえばそうなのかもしれません。子どもたち100人に聞いても、すべてそう答えると思います。
 ですから「失敗したくない」という感情が先に立ち、スタート時点でちぢこまってしまう。
体育の時間がそうなのかもしれません。鉄棒・マット運動・高跳び・水泳などなど。
すべてひとりでやっているわけではない、必ず他人が見ている状況・・・。
そこでやらかした「失敗」・・・。100発100中で、トラウマ吸着・・・。
 誰もチャレンジしたことの『勇気』を称えようとはしてくれません。当たり前・・・皆やっているのですから・・・。
それで片付けてほしくはありません。その子その子にとってのスタート時点での「勇気」に違いがあるからです。
跳び箱がその良い例かもしれません。3年生の時、3段しか飛べなかった。
皆、5段くらいは飛んでいた。そんな想い出を抱えたままの子にとっては、4年生での4段は、心臓がバクバクするほど勇気のいることになります。
逆に3年生の時に8段まで飛べていた子は、4年生でも余裕充分・・・。
人生で大切なことは、前向きに生きようとすることのはずです。
子どもが「何とかするぞ」の勢いで、黙々と生きようとする姿は、誰が見ても感心する姿であり拍手喝采です。
それが一度も成功しなくてもです。その目が前向きだからです。しかし現実はそうではありません。
失敗すれば、罵声の嵐なのかもしれません。そのような環境では、育つものも育たない・・・。
それをすべて払いのけることばが「成功とは99%の失敗に与えられた1%だ」です。
つまり、失敗しなければ成功はないということです。すべてが100%だとすれば、その中に失敗が99個、成功が1個です。
いつも成功と失敗は同居していなければなりません。
だから、跳び箱で3学年時にすでに8段飛べていた子は、4学年時の最初の跳び箱授業で、
4段が初めから飛べたとしても、それは成功でも何でもありません。失敗が99個ないからです。
であれば、9段・10段に初めからチャレンジし、100回目に9だんが成功すれば、それは本物の成功です。
子どもたちの学校生活の中で行われる横一線の授業スタイルは、
そんな本物の成功を味わう場としては、少々難題が多すぎるような気がいたします。
大切なことはお子さんが幼少のころより、「常に失敗があるから成功へとつながる。
だからチャレンジしていることが良いことなのだ。」という常識を伝えることではないでしょうか。
失敗に次ぐ失敗で、それでも諦めずに向かっている姿にこそ、拍手を送ること。
真剣な眼差しで向かい続けている姿にこそ拍手を送ること。
格好悪い姿でひっくり返っても、その眼差しが真剣であれば、その姿に拍手を送ること。とても大切な心の土台であると思います。
ある5年生の子がいます。その子は算数が苦手です。たしざんの繰り上がりがあると、手を使います。
でも、こつこつと歩きます。いつしか手を使わずに1年生のプリントをするようになります。
私はその姿が大好きです。けっして周りの子は、その行っている内容を見て、バカになどしません。
「5年生の子が1年生の問題を?」上から目線は一切ありません。
その努力している姿に何も口を挟むことができないからです。目は、瞳は真剣なのです。
私は思います。成績とは何なのでしょうか。その子の努力の度合いになぜ評価を与えないのでしょうか。
学校からのテスト結果に神経質になっている保護者の方に質問したいのです。
100点なら立派な「ひと」なのですか。「0」点は、「ひとのクズ」なのですか。
私からすれば、「0」点でも、真剣に向かったのなら「ひと」、自分は100点を取りながら、
横目でとなりの子の「0」点を見て、「あいつはバカだ」とさげすむ人こそ「ひとのクズ」です。
どうか文部科学省は考え直していただきたいのです。99%の失敗をしながら1%の成功を収めた子どもに評価をと・・・。
分からない問題に時間をかけ取り組んだ後に、「わかりません」といって、質問に出てくる行動に評価を・・・。
自分だけ黙々と学習を進めながらも、となりの子が「うーん」と、立ち止まっていたなら、そっと声をかけてあげる子に評価を・・・。
そしてそんな行動が当たり前になっているあなたにこそ「しあわせ」がやってくることを・・・。




第328号
「逃げ込む」
 雑誌「PHP」2月号に、女優の中江有里さんの記事が載っていました。
 -中学に進学すると、突然、勉強についていけなくなりました。
すごく真面目に授業を聴いているのに、先生が何を言っているのかわからなくなったのです。
(中略)頑張っているのに、どうにもならなくて、途方に暮れました。-
 さらに中江さんに追い打ちが・・・。
 -当時は学校が荒れた時代で、そんななか、私がいじめの標的にされたこともありました。
あるとき不良の先輩から「あんた、メンチ切ったやろ」と、いきなりバチンと平手打ちされました。
ものすごくショックでした。そんなこともあって、中学時代の三年間は苦しいことだらけの「どん底」でした。-
 女優・脚本家・作家という今の職業からは想像もできない過去を経験された方だったんだと・・・。
 そして中江さんを救ってくれたものが「書くこと」だったそうです。
日記のようにその日の出来事であったり、好きな歌の歌詞を書き写してみたり、
書くことで自分の中にある漠然とした思いを客観的に見られるようになったそうです。
 自分を離れたところから見つめる・・・。
 -あの中学校三年間は、確かに「逆境」でした。
でも、あとから思えば、苦しかったからこそ、そこから抜け出そうと、もがいて努力して今がある。
何もない平穏無事な毎日より私には得るものが大きかったと思います。
時々ラジオなどのお仕事でご一緒する伊集院光さんは「人はイヤなことや嫌いなことからしか学べない」と仰っていました。―
 さて、「逃げる」ということはどういうことなのか、前向きとは言えない語彙です。
しかし中江さんは、そうは思っていらっしゃらないようです。絶望解消法には「本を読む」ことがオススメだといっています。
 逃げるには二色あると思います。一つ目、逃げたままじっとしている。二つ目、逃げてもそこで自分が活動している。
 まさに中江さんのとった「書くこと」ということは、外界から一旦自分を遮断しながらも、その中で自分をいきいきとさせていることになります。
 日々、日常の生活の中で、イヤなこと、つらいこと、逃げ出したいことが多くあると思います。
まして、中学生高校生時代のように、感受性が育っていく時期にあり、
それを乗り越えることのできるような精神力も育たずにいる子どもたちにとっては、「絶望」ということばしか生まれてこないかもしれません。
中江さんは自身の経験を通じて、その逆境からの脱出法を見出されたのだと思います。
日々、子どもたちには勉強に部活、大きなストレスが押し寄せてきます。楽観的に乗り越えることのできる子。
そうでない子。家族のあたたかい支えを感じながら乗り越える子。ひとりで粘り強く乗り越える子。そして乗り越えられない子。
乗り越えることのできない子は、じっとしたままの子だと思います。
動かなければ、被害を受けることはない。動かなければ何も起こらない。
起これば悪いことだらけ、だから動かない方がいい。そう思ってしまう子が多いのかもしれません。ただ言えること・・・今のまま。
逃げることは悪いことではない。逃げ込むことも悪いことではない。
逃げ込んだ先で、自分の世界にどっぷりつかって、自分を取り戻そうとしている。
自分を楽しむうちに心も体力も自然に戻っていた。そんな体験を中江さんはなさったのかもしれません。
じっと座っていれば、誰かが助けてくれるに違いない・・・。
そう思うのは大きな間違いであることを、赤ちゃんの時代から学ばなければなりません。
自分の意思をしっかりと他へ伝える。赤ちゃんは泣きます。幼少の子は、だだをこねて座り込みます。
そして、小学校・中学校・高校・・・。黙ったままの子が増えてきます。その行動は様々・・・。
中江さんは書いています。
-読書の習慣がない人には、最初は大変かもしれません。
でも、いったん本の世界に入り込んでしまえば、つらい日常が忘れられる。
逃げるのは決して悪いことではない。意欲があるしるしなのですから。
(中略)生きていれば、誰もがそれぞれの「逆境」に直面すると思います。
悩んでいるときは、誰しも自分だけが不安で悲しくて苦しいように思えて、とても孤独です。
もし、そんな方がいたら、「ひとりじゃないよ」とお伝えしたい。本にはそんな力があります。-
本の魅力をしっかりと感じ取っている方なのですね。
子どもたちにとっての「本」、身近な本・・・「教科書」になってしまうのでしょうか。
活字に対する小さなトラウマを抱えたままの子も多数見受けられます。
漢字を見れば「漢字テスト」、文を見れば「長文問題」。
そんな意識を自然に身につけてしまった子たちに、ぜひ味わっていただきたい。
中江さんの今回の文章の中から発見した名言があります。
『私は、本はにげるための手段で道具だと思っています』





第327号
「コミュニケーション」
 ある書籍に載っていたものです。
 少々ぞっとする内容なのですが、第2次世界大戦中、精神科医のルネ・スピッツは、孤児院である調査をしました。
当時は多くの孤児が生まれましたので、第一に子どもたちには十分な栄養や衛生を与えたそうです。
唯一足りないものが、コミュニケーションだったそうです。
子どもたちの世話をするスタッフが全く足りず、子どもたちに声をかけたりなど、コミュニケーションがとれなかったそうです。
結果、91人いた孤児たちのうち34人が亡くなったそうです。
 一般的には誕生したばかりの赤ちゃんに、母は我が子の目を見ながら一生懸命に話しかけます。
これと同じように、ご家庭のペットなどにも声をかけていらっしゃるはずです。
 通じなくてもいい、しかし常に相手の目を見ながら語りかけること、大切なことであると感じました。
 どこへ行っても見かけるスマホを手にする人たち・・・。その光景は、紛れもなく人の目を見ながらの行為ではありません。
そのような行為を少年時代から当たり前として過ごしてきたら、
ひょっとすると大人になっても大切な人を前にしながらも、声だけ発すればそれで良いという姿になってしまうかもしれません。
 電車の中で赤ちゃんをだっこしながら、スマホに夢中なお母さん。
病院へ我が子を連れて行き、順番を待っているときもスマホに夢中になっているお母さん。
一家団欒の最中、食事をしながらも家族の目の前で、ラインの返信に勤しむ子どもたち・・・。
食後、テレビを見ながらやっぱり会話の弾まない家族たち・・・。
 今、家族たちから恐ろしいほどのコミュニケーションが奪われているような気がいたします。
 心身ともに成長過程にある子どもたちにとって「いのち」に関わるほど大切なコミュニケーションについて、今一度考え直す必要があると思います。
 人と人が距離を近くすれば、様々な摩擦が生じる原因にもなります。
しかしそれを恐れながら、コミュニケーションをとらないほうが善策だと思い込み、ひとりぽつっとする子もいると思います。
 赤ちゃん時代に多くの声を、しかも見つめられながら聞いてこられたお子さんと、与えるだけのものを与えるだけで、
忙しい忙しいとお子さんの目を見ずに、育てられたお子さん・・・・。
 その本の中に書かれている一文です。
 「人の脳には、食欲と同じく、関係性の欲求本能も強く備わっています。」
 つまりこの関係性の欲求を取り去るということは、子どもから食事を取り上げると同じことになります。
 お子さんを育てていらっしゃる方々は、我が子にできるだけのことをしてあげたい・・・。
我が子に与えるものは何でも与えたい・・・。我が子の欲することは何でもかなえてやりたい・・・。と、思っているかもしれません。
 お子さんが一番欲していることとは、「声をかけてもらいたい」「見つめてもらいたい」なのかもしれません。
 目の前にあるステーキ、お寿司、焼き肉・・・。そのどれもが、ひとりで食べるのではきっと美味しいはずがありません。
ご両親共々働き、帰りが遅くなり、帰宅したころにはすやすやと寝息を立てている・・・。なんの不満も言わずに・・・。
いや、不満を言いたかったのだけれど、言えなかったというのが正しいのかもしれません。
 久しぶりの休日、家族が全員一つのテーブルに集います。あーでもない、こうでもない・・・。
たわいのない会話が弾みます。全てが許される瞬間です。学校でやってしまったヘマ、会社でやらかした失敗、
どれもこれも笑顔がこぼれる瞬間があります。その中には成績のことも含まれるかもしれません。
 母と子の2人だけの時の成績の話とはだいぶ雰囲気が違うはずです。
「マイッカ」なんて右から左へ即通過、そんなムードが漂う団らんが子には必要です。
 ランチ講習(丸1日、のんびりとマイペースで向かう勉強、昼食は栗田がつくります)のとき、
食事が終わると好きな飲み物を片手にしながら、部活がどうだの、勉強がどうだの、学校の先生がどうだのと会話が弾みます。
私はそんな風景が大好きです。
 そしてまた皆、思い思いの勉強に入っていきます。皆、表情は安心しきっています。
 競争なし、比べるもなし、強制もなし、宿題もなし、テストもなし、でもそれぞれがなぜか真剣に向かっています。
 きっと家庭でも、わいわいがやがやとなさっている家庭では、同じような風景なのかもしれません。
 あまりにもご両親が教育に真剣になりすぎてしまうと、子は関係性の欲求を奪われたものと感じてしまうかもしれません。
絶食を強要されたような気持ちです。
 そうそう、この冬のランチ講習では、クリスマス会のおかしが大量に余ってしまいました。
そこで、おやつタイムに出したところ、あっという間になくなってしまいました。どうか、
その後の自らの体型に異常が現れたとしても、私を責めないでください。





第326号
「200メートルの出会い」
 灰谷健次郎さんの著書、「灰谷健次郎の発言〈3〉子どもが生きる」より、以下のような場面がありました。
 ある身体障害者の少女が毎朝施設へ向かうスクールバス停留所までの距離200メートルの出会いです。
 彼女はその200メートルに数十分かかります。
 まずモーニングサービスの看板をかけてくれるおねえさんとあいさつをします。
「麻理ちゃん。おはよう。」「靖子ねえちゃん。おはよう。」
言語障害を併せ持っている彼女のことばは「あーあー」としか聞こえません。
途中、まず一回目の休みを取ります。仕出し屋さんの前でとります。ネコのクロにもあいさつをします。
二回目の休みをかん木のはえた野っ原でとります。そこで彼女はハチが体内から余分な水分を口から出すのをじっと見ます。
少女はしあわせな気分になり、ふたたび歩き出します。
パン屋の前を通ると、今、ジャムパンを焼いているのか、あんパンを焼いているのかを当てます。
パン職人から「オッス、麻理ちゃん」と声をかけられます。
おしまいの休みは草花の植えてある前でとります。マツバボタンとあいさつをするのです。
マツバボタンは一つのおしべを右からさわると、残りのおしべがみんな右へならう習性があります。
彼女は誰に教わったわけでなくそれを知っているのです。それを朝のあいさつと言っています。
 彼女がバス停へ着くころ、彼女の前を、朝食を抜いたサラリーマンが、ネクタイの乱れをなおしながらかけていきます。
幼稚園に行きたがらない子どもが泣きながら、親に手を引かれていきます。
 そしてその旁らをある大人が次のような言葉を吐きながら通り過ぎます。
 「あんな子、なにが楽しみで生きてるのやろ」
 私はこの一行を目にしたとき、こころが凍りつきました。
 この子はしあわせを見つけながら、しあわせに出会いながら生きている。
ハチが口から水を吐き出すのを私は知りませんでした。
マツバボタンがそんな習性を持っていることを知りませんでした。
 誰もが陥ってしまうひとつの感情、障害を持った子に出会ったとき・・・気の毒な子だな・・・その感情は全く必要がないこと、
それどころかひょっとしたらこの子の方が私たち健常者よりもしあわせなのかもしれない。
彼女は彼女としての人生を送っている。彼女は彼女だけのしあわせの感じ方を持っている。
それどころか、健常者たちは日々の競争社会の中にずっぽりと足を踏み入れてしまっている中で、
鬱々とした気持ちを味わいながら生活しているかもしれない。
打ちのめされ、苦しみ、裏切られ、信頼という言葉から見放され、どう生きていったらいいのかさまよい歩いている。
 この子の周りには明るいあたたかいお日様が毎日見守っていてくれている。
「しあわせ」をこころからかみしめ味わっている。そんな感情に襲われました。
 この子にそそがれるあたたかい日差し・・・それは家庭の中でも創れるはずです。
日々、多くの苦しみや哀しみにさらされながら帰ってくる我が子に向け、投げかけてあげられるもの・・・。
それは何なのか。吸収してあげられるもの・・・それは何なのか。生きることとは何なのかへの原点に今、立ち戻ることが必要なのかもしれません。
 家族があるひとつの大切な、かけがえのない宝物を持ち続けること、それが新しい年への希望につながればと思います。
 家族全員が「信頼」でつながれること。
そうであれば家族のひとりがきっと誰もが悪いと思うことをしてしまったときでも、
家族はそのわけを聞き入れてくれるだろうし、理解してくれるはずです。
家族全員が「おもいやり」でつながれるなら、自然とお手伝いができたり、自分のことを自分で行うことができるようになるでしょう。
家族全員が「しあわせ」でつながれるようになったとき、きっと外でイヤなことがあっても、家族に会えば気持ちは癒えると安心するでしょう。
そんな祈りをささげること。それが新年へのひとつ目の祈りとなれば幸いです。
 新しい年が来て、どうか足もとの小さな花に目を向けてください。
精一杯に咲いているその姿に「ありがとう」の一言を・・・。暖かい部屋に迷い込んできた一匹のクモに、
「君、ひとりで寂しくないかい、友だちはいないのかい。ぼくで良ければいつでも相談に乗るからね。」
と、声をかけてあげてください。
 学校が始まり、子どもたちはまたいつもの競争の中へと入っていきます。それを競争と思わずに、
助け合いだと思いながら生活できるようになったらいいですね。きょうはどんなことで助けてあげられるだろうか・・・。
きょうはどんなことで目の前の人の心を和らげることができるだろうか。それが原因で自分が損したっていい。
だって君には世界で一番の応援部隊がいるのだから。
 家族がいるのだから。





第325号
「ウサギとカメ」
 イソップ寓話の中の有名なお話、「ウサギとカメ」。ギリシャ神話のひとつで、日本でもおなじみのお話。
日本昔話としても扱われています。
 原点に立ち戻って考えてみますと、何もウサギとカメが競争する必要はなく、
ウサギはウサギらしく、カメはカメらしくあればいいと思います(それを言ったら何も始まらないかもしれませんが)。
ウサギはカメの足の遅さに気をとられ、油断をし、結末はカメに勝ちを譲ったお話で、
人生こつこつ生きることがいかに大切であるか、まさに日本人にはぴったりのお話かとも思えます。
 カメは常に自分を把握していました。自分自身を見つめる勇気を持っていました。
自分には目的地に早くたどり着けないことをあらかじめ理解していたことで、この人生をどのように生きていけば良いかを常に考えていました。
そして、結論。「休みなくこつこつと歩むことが大切」だと・・・・。
しかし目的地にたどり着くとはどのようなことなのでしょうか。
今の子どもたちに当てはめてみると、小学校で同じ内容の勉強に評価が与えられ、
それによって優劣が与えられ、順位が与えられ、高校進学や大学進学などで人の価値が決定されてしまうような風潮が当たり前になっています。
一流大学卒業、一流企業就職があたかもしあわせへのゴールインかのような風潮が蔓延しています。
収入安定が果たしてしあわせなのか。名誉職を勝ち取ることがしあわせへのキップなのか・・・。
 というように、考えてしまうのはいったい誰なのか・・・。
 実は子どもたちには縁遠い考えだと思っています。幾度も言われているうちに徐々に変化する価値観。
その価値観で覆い尽くしてしまうような言動がどこかで・・・。
 私は真剣に取り組んでいる子どもたちを目の当たりにして、その瞬間に評価を与えてあげたいと思っています。
精一杯に生ききっていればそれが最高の評価になります。
「生きようとすること」その積み重ねが、やがて「生きる力」へと成長し、自身だけでなく他人を助ける行為、
つまり隣人に対し、思いやりのある行動などのような「ひと」としての当たり前のものを育むことにつながると思うからです。
他を意識せず、自分の道をただ一心に歩こうとする姿勢は、何者にも替えがたい尊い姿ではないでしょうか。
確かに社会へ出ればほとんどが結果主義になります。結果が出て初めて評価になります。
わかってはいても、それをそのまま子どもたちの世界に100%重ねてしまっては、大切な「こころ」は育つとは思えません。
三者三様、千差万別、その子がその子らしく淡々と自分の道を歩む姿が本物の100点。
大好きな家族に囲まれ、暖かみを感じながら、淡々と歩む・・・。しあわせな家族の姿です。
片や、傍らで我が子がしっかりと机に向かっているか監視をし続ける家族・・・。
「やあ、かめさん、相変わらずマイペースで歩んでいますね。」「やあ、うさぎさんも相変わらず弾んでいますね。
空飛ぶヒバリさんでも追いかけているんですか、今日も空は青く澄んでいますよね。
皆さんによろしくね。」「ありがとう、かめさん、君こそ道ばたに咲く一輪の小さい花に挨拶かい。歌でも歌ってもらえたらいいよね。」
お互いがお互いを敬い、その立場を理解し、慈しみ逢う・・・。私は私の道を、あなたはあなたの道を・・・。
別々の道を一緒に歩く・・・。難しいことなのかもしれませんが、それが家族の理想なのかもしれません。
決して自分の歩んだ道を我が子に当てはめない。決して他人が歩んだ道を我が子に当てはめない。
決して自分の理想とする道を我が子に当てはめない。我が子は我が子の道を歩む・・・ただ精一杯に・・・。
その姿を見たとき、家族全員が我が子に対しこころからの拍手・・・。
「うさぎさん、私は私の道を歩んできました。そしてこれからも私の道を歩み続けます。
なぜって、だって今まで数多くの友だちが私にはできました。
その友とこれからも逢いたいし、話したいし、食事もしたいし、こんな私だけれども、みんな笑顔で迎えてくれるんですよ。
なんとかマイペースで食べてきたもんで、これからもマイペースで食べていきますね。」
「そうだったんですか、かめさん、わたしも実は、多くの鳥さんたちや雲さんたちと友だちになりましてね。
これからもこうやって飛び跳ねて生きていきたいなって感じていたんですよ。お互いにしあわせを見つけることができてよかったですね。」
こんな会話がお子さんと,その周りのお友だちとの中であったら素敵ですよね。
人と人、なぜこうも競わなければならないのでしょうか。生まれたときから「あなたの子何グラム? 
私のところはね~グラムだったのよ。」もうくらべっこですか。
さて、君たちよ。久々に玄関の相田さんの詩ですよ。
「子供へ一首 どのような道を どのように歩くとも いのちいっぱいに生きればいいぞ」 みつを





第324号
「自然な子」
 もう30年以上も前になりますが、ある心理学者の本に出会いました。加藤諦三さんです。
青年心理についてのものに特化しており、読んだ覚えがあります。最近その方が書かれた本に出会いました。
『親が与えている愛、子どもが求めている愛』という著書です。その中に度々「良い子」という表現が現れます。
加藤さんが書かれている良い子の定義をいくつか紹介いたします。
・無駄に人生を生きている子は多い。その典型が「良い子」
・真面目に仕事をし、真面目に勉強しているのに、最後には八方ふさがりになってしまう。
・日常生活でも努力はしているが、人間関係が上手くいかない。
・外側の生活はまともなのだけれども、心はいつも悩んでいる。
・いつも服従である。
・心の底から満足するということがない。
・その不満を外に出さない。
・立派な大人、立派な少年になっているのだが、心は成長していない。
・「良い子」は憎しみを心の底に持ちながら、「いい人」を演じる。だから生きるのが楽しくない。
 まだまだたくさんあるのですが、以上は大人の世界にも通じる良い子たちです。
 次に子どもたちに絞っていくと、良い子は以下の通りです。
・「良い子」はしてはいけないことをしない。「これをしたい」ということがない。
・「良い子」はいくつになっても自分がない。
・「良い子」はどう生きたらいいかわからない。
・「良い子」は誰を好きなのかもわからない。
・「良い子」の最大の問題は、自分の好きなことがない。本気で「これがしたい」ということがない。
・「良い子」は競争すべきでない人と競争する。だから仲良くできる人とも仲が悪くなる。
・「良い子」は、親の言うことを何でも聞く。
 まだまだたくさんあります。
 加藤さんの言うところの「良い子」とは、自分にとって大切な人に従順であり、服従であり、反発せず、自分の意思を持たない、
相手に自分をあわせてしまう子・・・。そのように感じられます。
 ここで少しばかり「どきっ」とさせられるのが、結構日常にこのような「良い子」は結構いるぞと感じられてしまうことです。
学校で何でも「ハイッ」と返事をし行動する子。いつもニコニコし、決して感情を外に出さない子。
実は反対意見であったとしても、自分を殺し本当の気持ちを出さない子・・・。
 そして読み続けていくうちに「自然な子」に出会います。これこそが子どもらしさ、つまり「ひと」らしさではないかと思うような子です。
自然な子の定義です。
・「自然な子」は、遊びたい、食べたいという欲求を持っている。
・「自然な子」は、子どもらしい欲望を持っている。
・「自然な子」とは、親を恐れていない子どもである。親を好きな子どもである。
・「自然な子」とは、正面から親と向き合って、ちゃんと自分の意思を伝えることのできる子である。
・「自然な子」とは、好き嫌い等をきちんと他者に言える子どもである。
・「自然な子」とは、イヤなことをイヤと言える子どもである。
・「自然な子」は、自然な感情を素直に出せる子どもである。

・「自然な子」が親を喜ばそうとするのは、親が好きだからである。
・「良い子」が親を喜ばそうとするのは、嫌われるのが怖いからである。

 このふたつの違いが私を釘付けにしました。果たして今、目の前にいるお子さんはいったいどちらのお子さんなのか。
 私は自然な子たちとこれからもずっと、この小さな空間で接していきたいと思います。
今、目の前で学んでいる子たちよ、自分の意思でここへ来てくれてありがとうね。
そして自然な気持ちで机に向かっている自分がいますね。「自然な子」になっている自分を、ぜひご家族の前で精一杯配ってください。ありがとう。





第323号
「断勉」
 灰谷健次郎さんの著作からヒントをいただくことが多くなりました。「灰谷健次郎の発言Ⅰ」(いのちの優しさ)
の中の「断食」から、ふとつながる物を感じました。
 医療としての断食療法というものがあり、そこには若者たちも多数参加しており、
中にはなかなか言葉を発することができないところへ、やっとのことで口をきいたらお前でもものが言えるのかと友人にからかわれて、
ふたたび言葉を失った女子高生がいたりしたけれど、治療中灰谷さんがあいさつをすると、ちゃんと返事をしてくれたり、
同室の子と散歩を楽しんでいた内容が書かれていました。
 断食療法の効果は、(1)全ての臓器に休養を与え、自然治癒力を旺盛にする。
〈中略〉(5)断食後は何を食べても美味しく、悪食、偏食の矯正が楽にできて、正しい食生活に入ることができる。
(6)絶食の体験により、精神、肉体の苦難を克服したという自信が体得され、あらゆる場合にプラスとなる。
だそうです。
実は私がここに目をとめたのは、この「食事」というものを絶つ「断食」を「勉強」を絶つ「断勉」にしたらどうなるかという考えでした。
時折ですが、海外の貧しい経済状態に置かれる子どもたちが、貧しい環境の中でいきいきと勉強をする光景が映し出されたりします。
ものがない状態の中で、子どもたちは取材に訪れた記者の質問に口を揃えてこたえます。
「勉強が楽しい」と・・・。教科書もなく、宿題もなく、テストもなく、学べるのは学校でだけ・・・。しかも給食もなく・・・。
でも子どもたちの反応は、学ぶことに飢えている・・・。
先ほどの断食効果3つを勉強に置き換えてみます。
(1)勉強を絶つと全ての頭脳に休養を与え、自然治癒力を旺盛にする。(つまり学びたいという本能が復活する)
(5)断勉後は何を学んでも楽しく、勉強嫌いの矯正が楽にできて、正しい学びに入ることができる。
(6)断勉の体験により、精神的に自信が体得され、あらゆる場合にプラスとなる。
おそらく、貧しい教育現場に溢れる子どもたちが口々にする「勉強が楽しい」という発言は、
今の日本の子どもたちであったらいったい何パーセントが理解できるでしょうか。ほとんどに近い子どもたちは、「何言ってるの」ではないかと思います。
無理矢理「これを食べなさい(覚えなさい)」「これを明日までに食べてきなさい(宿題)」
「これを食べないと次からはもっとまずいものを食べさせるよ(成績下がったらもっと勉強させるよ)」
といった教育制度がいまの日本の教育なのだろうと感じてしまいました。
ほぼ脅迫に等しい内容で日々日本の子どもたちは歩かされているような気がいたします。
ある日高校生が一言、「今度のテストで赤点とると、夏休みに補習があるんです。学校へ行かなきゃ・・・。」
ある日中学生が一言、「課題提出しないと、内申に響くって言われたからやっているんです。」
ある日小学生が、「・・・・・・・」つまらなそうに、まるで食べたくもない食事をいやいや目の前にしているような表情で向かいます。
言葉で表現することもできないくらいに生きようとする気力も失われています。
そのような表情をしたいからしているのではありません。「食え、食え、食え、・・・」
と言われながら、こころの中は、体脂肪ならぬ「勉脂肪」で埋め尽くされています。その脂肪を取り除くべく子どもたちは取り組みます。
ゲーム・スマホ・・・。
それでも成績や評価を恐怖と感じながら、しかたなく向かう子どもたち・・・。
学ぶことの楽しさ、わかることの楽しさ、できたことの楽しさ、生きることってたのしいと感じてもらえるような環境が必要なはずです。
私の望みはそんな元気を失ってしまった子どもたちに「ニコッ」を取り戻すことです。
不可能に近いことなのかもしれません。でも、こんな気持ちで日々戦っているつもりです。
人は弱いです。そう思いつつ、気がついてみれば流されそうになっている自分がいたりします。
さて、こんなんじゃダメだ、ぼくだって、わたしだって、このような世界から脱出したいと願っているのなら、もう皆仲間です。
気持ちはひとつです。助け合う勉強、教えあう勉強、発見し合う勉強、教科書に縛られない勉強、自由な勉強、
何これって言うくらい脱線した勉強・・・やってみましょうよ。
ひとが人らしく見える瞬間・・・人がひととしている瞬間・・・それは君自身がいきいきとしている瞬間です。
「あーん、もうわかんない・・・。」と、大きなグチがこぼれていいんじゃない。「やったぜ、9回目でやっと合った。」
ここへ来たときぐらい「勉脂肪」のことは忘れましょう。





第322号
「教えられて」
 私が灰谷健次郎さんの作品に出会ったのは、もう30年近くも前のこと、それも生徒さんからです。
ある子から「兎の眼」、ある子から「ワルのポケット」つまり2人から・・・。
灰谷さんは小学校教師を17年務められ、常に子どもの立場に立ち、社会から受ける矛盾に立ち向かわれました。
すでに他界されましたが、その意思は今でも私に大きく影響を与えています。
今回の入院で、改めて灰谷作品を見直す良い機会を戴きました。(ベッドでゆっくりと目を通すことが出来ました。)
 買っておいたのに読まずじまいであったそれらの灰谷文学たちの中の一冊、茶色く変色していました。「いま、島で」というエッセイ集です。
 当時、灰谷作品が世の中から脚光を浴び、テレビやラジオで取り上げられ、灰谷さんご自身も忙しい日々を送られていた頃、
九州小倉のサイン会場にひとりの娘さんが来ます。
その娘さんはわざとあとから来る方々に順番を譲り、最後になって灰谷さんに何かを告げようとします。声にならず、嗚咽を絡めながら必死に・・・。
 それは小学校から登校拒否児だったこと。中学・高校とほとんど学校に行っていないこと。
幼い頃、父をガンでなくし、何とか学校へ行かそうとする母とは地獄の日々であったこと。
今日の今日まで死ぬことばかりを考えて生きてきたこと。腕には自傷で傷ついた傷が幾筋もあること。
そして彼女から最後に発せられたことばを記します。
 「わたしはいろいろあった苦しいことを灰谷さんにきいてもらいたくて話をしにきたのではないのです。
灰谷さんの本を読み、灰谷さんの話をきき、わたしは生きようと思いました。
その生きる決心を灰谷さんにきいてもらいたくて、灰谷さんの前にきたのです。ありがとうございました。」「生きます。何があっても・・・・。」
 美しい・・・。灰谷さんと、この娘さんの出会いが美しい・・・。純粋にそう感じました。
 灰谷さんは言っています。
 『教師にとって、子どもを教え導くことが先ではなく、子どもが哀しんでいればその哀しみを、子どもが涙をこぼしていればその涙を、
いっしょに背負うことが必要であって教え導くことはそれからでいいのだというのがぼくの持論だ。』
 以前からそれに近い気持ちを抱いていたところへ、この言葉・・・。
 「添う」・・・子どもの目線に添う。こころに添う。これがあってはじめて子どもたちはこころを開き、微笑んでくれる。
それは教師だけではない、子どもたちを取り巻く様々な人たちが、皆共通した思いで見つめることが必要です。
 先ほどの娘さんが、もし灰谷作品に出会っていなかったら、どんな人生を歩んでいたのかと思うと・・・。
 人生は出会いだとよく言いますが、それが「運」などという一文字でかたづけられていいのでしょうか。
今、まさに今、私たちは子どもたちに寄り添うこと、まず足もとをしっかりと見つめてあげること。安心して歩ける靴を履いていますか。
靴下はしっかり毎日取り替えていますか。その足を毎日洗っていますか。
 つまり、下から子どもたちを見つめてあげる。いつも上からばかり見つめていては、子どもたちの足のにおいも分かりません。
 子どもたちが望むもの・・・そっと見守ってくれる温かいまなざし。背中に感じる安心を、あたたかい毛布のように感じながら机に向かうことができる。そんな家・・・。
 信頼という二文字をしあわせに繋げ、この家の一員で良かったと自然な気持ちで毎日を送ることができる。
それを当たり前と片付けることなく、「ありがとう」に変化させながら日々を送る・・・。
それが子どもたちがこころから願っている、何気ない普段の生活ではないかと思います。当たり前な、自然な、そんな生活・・・。
 先ほどの娘さんは、これから先の自分をどうか優しく見守ってくださいと報告に来たのだと思います。
 いつ、どんな時でもそっと見守っていてくれる・・・。
 勉強面で、ついつい言葉が出てしまう・・・これは成績という社会が作り上げたルールが正しいことだと認めてしまっているからこそ出てしまう言葉・・・。
しかし子どもたちはどんなに懸命に向かっても、上手くいかないこともあります。これは大人社会の方でも多いはずです。といいますかそれが当たり前。
 勉強が嫌い・・・なぜきらいになってしまったのか、寄り添うことが家族の努めではないでしょうか。
目先にあるテストの結果だけでは、子どもたちは救われません。最も苦しんでいるのは当事者本人。
それを持ち前の「楽天性」で蹴飛ばしながらたくましく生きる子どもたち・・・。偉いよなー。楽天性は子どもがもつ特有の得意技。
 大人はなかなかそう上手くいきません。うつ病って大人が多いですよね。子どもはそんなことお構いなし、結構すぐ夢中になって遊び始めます。
なぜなんだろう。家族が注ぐあたたかい毛布のような眼差しを、いつも信じているからです。
お父さんが会社で上手くいかないことがあっても、そっと見守ってあげるお母さん。
子が学校で上手くいかなくても、そっと見守る温かい眼差しのお母さん。「期待」は、イライラの原因菌です。美しい出会いを・・・。毎日。





第321号
「叫び」
 今回はある著作からの抜粋がほとんどになります。強烈な印象を覚えましたので・・・

 ――この三年間、私は中学生という肩書きでいたけど実際は違ったと思います。中学校なんか一ヶ月も通わなかったからです。
小学校の頃から時々休んでいたけど、中学では一ヶ月通ったきり全くといっていいほど学校には行きませんでした。
この三年間は私にとってはとても大切な時間だったと思います。――
 
 灰谷健次郎さん(児童作家、代表作として『兎の眼』『太陽の子』など)の著作を読みながら出会った文の一部です。
 私は釘付けになりました。 「学校へ行かずに大切な時間だった」とは?・・・続きます。

――中学に入ってからは、急に時間がなくなってしまいました。
それは慣れてしまうと思わなくなるかもしれませんが、私は慣れることができないように思いました。
でも学校はそれなりに楽しかったです。それは勉強とかではなくて、授業中に先生に隠れてする友だち同士のおしゃべりや、手紙のやりとりでした。
それはとても楽しかったんですけど、とにかく時間がなかったように思います。
学校へ行っても、スケジュールが全部つまっていて、家へ帰るのは夕方です。
そこでもう、私はとても疲れてしまいました。でも、宿題をやらないといけないし、私は塾へ行ってなかったけど、行っている人はどこに自由な時間があるんだろうと思っていました。
つまり、考える時間がなかったのです。勉強以外のもっと大切なことを、自分で納得のいくまでとことん考える時間がありませんでした。
だから何かに疑問を持つような時間もなかったのです。だから私は、学校を休んでいる時はいつも何かを考えていました。――

――中学校は勉強についていけない子はダメというような、落ちこぼれというレッテルをはってしまって、
まるで勉強ができないと生きていけないというような考え方を、意図的ではないにしろ、知らず知らずのうちに植えつけてしまうようなところがあると思うのです。
もちろん学校によっても違うだろうし、すべてがそういう学校だとは思いませんけど。でも少なからずそういうところがあるように思いました。――
――学校というか、私たちよりも長く生きている大人に教えてほしいのは、数学や英語だけじゃなくて、人間として大切なことが一番だと思います。
私たちはまだ若いから、これからたくさん壁にぶつかったり、時には粉々に砕けてしまうかもしれません。
そういう時に、マイナスからゼロに戻って、また向かっていく力を、大人から教えてもらいたいと思うのです。
私は学校を否定するつもりはありません。でもほとんどの子どもは、絶対に行かないといけないという状態です。
でも、それだけではなくて、他の道も選べるような世の中にしてほしいと思います。そしたら、
学校へ行かないとダメな人間になるなんていう考え方がなくなると思うのです。
家で勉強しても、学校へ行っても、自分の学習したいことだけ勉強しても、ちゃんと人として認めてもらえるような世の中になれば、
私たちももっとニコニコして人間らしく生きていけると思うのです。――
――「今の子どもは冷めている」なんて言わずに、冷めていないと生きていけないような世の中、
学校にしてしまわないように、子どもがいきいきと生きていける世の中をつくってほしいのです。
そして、人間は自分がやりたいと決意したら実現できる能力をせっかく持っているのに、それを考える時間もないのはとても悲しいことだと思います。
せっかく人間に生まれたのだから、私はやりたいことをたくさんやってみたい。でも、今はだんだん変わっているときだと思います。
(中略)これからどう変わっていくのか、私はワクワクしています。そしてこれからも自分のペースで進んで行きたいです。
私はこの三年間で、とっても大切なことを学んだと思います。それはもちろん数学や英語ではなく、人間として大切なことだと思います。
そして私は、あのまま学校へ行っていたら、学べなかったかもしれないと思います。
それから、またどんどん私自身も変わっていくかもしれないけど、いろんなことを考えながら、ゆっくり進んで行きたいです。――
 
 灰谷さんはこう言っています。「わたしは少女の言い分を、まるごと肯定する立場をとる。」

 今回の[ねがいましては]は、一冊の本の一部を紹介するのみになってしまいました。しかし、私が今回この内容を取り上げた理由をお察しいただければ幸いです。
 そして最後にお伝えいたします。この手紙(内容)は20年以上も前に綴られたものであることを・・・。
 今と何も変わらずに重なってしまうことを・・・。  『灰谷健次郎の発言〈4〉』―学校とは- より





第320号
「2ヶ月の夏休み」
 6月のある新聞、「2ヶ月の夏休み」とスタートする記事が載っていました。
この待遇を受けるのはフィンランド、公立小中学校の先生方のお休みです。
当然職業としては人気の部類に入るそうで、大学の教員養成学部の競争率は10倍を超えるそうです。
ある郊外の中学校、職員室にはソファーが並び和やかな雰囲気が漂っているとのこと・・・。
 午後2時半頃には授業は終わり、2時間ほどかけ翌日の準備をすると家路につくそうです。
部活動はなく、生徒は地域のスポーツクラブなどに通うそうです。
一方日本の中学校では、6割の先生が「過労死ライン」を越えて残業に携わります。
ここで大切なのは、学校の先生方が忙しいということは、それに比例して児童生徒たちも忙しいということ。
つまり子どもたちも「過労死ライン」であること。
中央教育審議会では、「働き方改革」の中で、部活の朝練禁止や夜間の電話を留守電に切り替えるなど、教員たちの長時間勤務解消へ乗り出しています。
それでも、午後8時までに全員退勤にまではほど遠いのが現実だそうです。
と言いながら、時期学習指導要領では小学校3年生から英語が始まります。しかし他教科の学習量は減りません。
授業時間をどう捻出するかは学校任せになっているそうです。
最後に記事はこのように結びます。
◆国際学力調査の成績でフィンランドを上回る日本。「教育先進国」をアピールするには、先生がゆとりを持てる環境づくりが先決だろう◆
子どもたちがゆとり教育を受けたことで、国際学力調査の成績が下がった、
だから脱ゆとりの道をとりながら、今度は教員たちが過労死寸前だから教員たちにゆとりを与える・・・。
大きな矛盾が立ちはだかっている現実があります。
学校の先生方は、今や壊れる寸前・・・では子どもたちはどうなのか、壊れそうな先生方と毎日顔を合わせ、授業を行う教室をご想像いただきたいのです。
国際競争に負けないように教育の質を高める・・・。
そのように政治家や企業のトップの方々はお考えになっているのかもしれませんが、それに呼応するかのように保護者の方々も「それ行くぞー」と、
子どもたちをあおる。気がついたら「家族」を感じさせるような時間がどこにもなくなっていた・・・。戸籍上は家族であっても、こころ上は・・・。
その部分を今一度見つめ直すことが大切だと思います。
家族で囲む「団らん」。家族で楽しむ「休日」。家族で楽しむ「・・・」。何でも結構です。家族がひとつになって時間を過ごすこと、それが欠落してしまっている現状。
学校の先生方にも家族がいらっしゃいます。先生方は家族らしい時間を過ごされているのでしょうか。先生方のお子さんたちはご両親といっしょに家族らしい時間を
過ごせているのでしょうか。先生方も「ひと」、そのお子さんたちも「ひと」・・・。
毎日勝つことだけのために時間を費やす子どもたち・・・。ここに通う子どもたち(中学生)に訪ねます。
「中学へ行って、まさかこんなはずではなかったのに、と、思うことありますか。」
私が驚いたのは、「定期テストの成績を必ず顧問の先生に見せなければなりません。悪いと呼び出されるんです。」
部活動で時間を奪いながらも、さらに成績にまで干渉してくる・・・これって囚人扱い?
子どもたちよ、なぜ声を上げないのですか。自分から選んだ道だから仕方がないのですか。
周りが皆そのようにしているからですか。周りが皆、同じことをしていれば変わったこととして感じられないのですか。
信号機が赤なのに、周りの人たちが皆、無視をして渡ってしまえば自分も渡るのですか。
たった一度の自分の人生、フィンランドの先生方や子どもたちは2ヶ月の夏休みを利用して、様々に人生を送っています。
これからどう羽ばたこうか。どんな人生が待っているのだろう。
世の中にはどのような風景が広がっているのだろう。豊かさって何なんだろう。ものが溢れていることなのかな-、いや、そうでもなさそうだな。
だって、あの夏休みに行ったときのあの風景、こころから豊かだなーって感じたものな。家族全員で囲んだ夕食は格別だったなー。
僕も将来はそんな家族を持ちたいなー。
慎ましくていい、質素でいい、あれがほしいこれもほしいと、物や結果ばかりに執着している時間がもったいない。こころの中にあたたかいものが流れる時間を楽しもう。
それにはそばにお父さんがいて、お母さんがいて、おじいちゃんおばあちゃんがいて、きょうだいたちがいて、ペットがいて・・・みんなが一緒にいるときが「しあわせ」を感じるときなんだね。
たった一度の中学生生活、たった一度の小学生生活、たった一度の高校生生活、
何かひとつでも家族とのあたたかい想い出をお持ちになっていますか。本当の豊かさを見つけてみませんか。





第319号
「与えない」
 ずいぶん以前に出会った本を最近読みました。その中に「絶食療法」というものがあり、それを子どもたちに置き換えてみると、
「ひょっとして」というヒントがかくれているのではないかという思いになりました。
 水や塩などの補給は許可しても、それ以外の補給はほとんどなしの状態を続けるそうですが、正確にはもっと細やかなルールがあるようで、
それをすべて羅列すると相当の量になってしまいますので、要旨だけ書かせて戴きます。
つまり、一旦人の体の中をリセット状態にすることで、自ら生きようとする、復活させようとする力を呼び起こすのだそうです。
 ものがあふれかえっている、豊か(すぎる?)な今の社会の中にあって、私たちは多肢から選択をし、生活しています。
中には選択できないものも結構あるのですが、食の買い物に関していえば多肢です。
こと体に関しては食が大きく関わり、「欲」をそそる日常の中で、その欲に負け、いつの間にか体がオーバーヒートしてしまうようです。
その状態を「体を壊す」というのかもしれません。そこで一旦原点に戻って本来の体がもつ機能をリセットしてあげる手段が、先ほどの「絶食療法」なのかもしれません。
 原点に立ち戻り、自身にとって必要なものだけを腹八分目に抑えながら吸収する。食についていえばそれが理想ということでしょう。
 さて、食を「学ぶ」に置き換えてみましょう。
義務教育(良い意味で、平等な内容を平等に注ぎ込む学び)を受ける子どもたちにとって、消化吸収力のよい子たちには、十分なエネルギーとして吸収されるでしょう。
一方吸収力が少々緩やかな子たちには、目の前の「食」(学び)が余ってしまい、なかなか吸収しきれないで残ってしまいます。
そうなるともう目の前の「食」(学び)は、異物としか見えなくなってしまいます。精神的にはいらないもの、邪魔物、きらいなものに置き換わっていきます。
 それでも、「食」(学び)の供給は止まりません。
計画されたカリキュラムは、子どもたちの「こころ」など完全無視、毎日のように目の前にならび、「食え食え」(学べ学べ)とやってきます。
 食は楽しむ物、「おいしい」といってニコニコしながら、しあわせを感じながらとるものです。家族で楽しむ「食」、友だち同士で楽しむ「食」・・・・。
 理想の学びとは、「たのしい」といってニコニコしながら、しあわせを感じながらするもの、クラスで楽しむ「学び」、友だち同士で楽しむ「学び」・・・。
そんな学びが幼少期から蓄積していれば、学びの土台がしっかりと定着し、やがて自身で自身の人生を深く考えるにまで成長したとき、確かな足取りで黙々と机に向かうことになるでしょう。
 最近の中学校や小学校の教材を見ていて感じることがあります。
漢字であれば、漢字ドリルにあった内容のノートが出来ており、そこを練習すればそれよい内容になっています。
中学英語の単語練習では、教科書の内容に沿ったもので、単語の書き入れ場所、品詞、意味などをきれいに書き込めるよう、カッコなどがあらかじめ印刷されています。
 つまり、誰が練習しても同一の物ができあがってしまい、生徒それぞれの独創に富んだノートづくりは目にすることが出来ません。すべて同じノートになります。
 食でも消化吸収能力に個人差があるように、学びの世界でも個々それぞれに学びのしかたがちがいます。
ある子は、さっさと終わらせるためだけの精神状態。ある子は一つ一つの単語に広がる世界を楽しもうとしている。
 たったそれだけでも、周りから見ればあの子は速い、あの子は遅いとなりますが、速いが良い遅いが悪いという物差しでは判断できないものがあります。
 その子その子の感性を大切にするような、そんな学びの空間があってはじめて真の学びの準備が出来るような気がいたします。
 「あれをしなさい、これをしなさい」と、次々に目の前に並べつけてしまうことは、子どもたちの感性を根こそぎ奪い取ってしまうような気がいたします。
 「人」は個性があって「ひと」・・・同色に染め上げてしまうようなものは極力避けた方が良いのではと思います。
 ある日、小学生のひとりが「英語の単語の練習がしたいので、4線プリント(英単語を書くように印刷されたもの)持って帰っていいですか。」と、申し出てきました。
この申し出が出てくるには、私からのある一言がありました。
 「ひとは皆それぞれ覚えるスピードがちがうもの、だからどのくらい練習するかは自分で決めるものだよ。
自由にやってごらん・・・ここは宿題はないからね、宿題は自分で作るもの・・・。」
 きっと、アルファベットを書くことが楽しく感じたのでしょう。楽しく感じたときがいちばん伸びるときです。
 ちょっと不安が・・・この子も中学校へ行ったら英語がきらいになってしまうのかな・・・。
 競争なし、評価なし、「楽しむ勉強」だけで、歩んでくださいね。ありがとう。





第318号
「患者さんは?」
 「入れてください」といっても、そう簡単には入ることの出来ない空間へ行ってまいりました。
 入院です。検査入院など、計画性のあるものは別として、いつ入れるかなど、全く想定していない空間です。
私の場合、罹患(りかん)部位が「脳」であったため、その部位専門のフロアーへと運ばれました。
症状が比較的軽かったため、私やその他の患者さんを取り巻く現場を、かなり冷静に覧ることができました。
 脳疾患は、かなりの割合で血管に関わったものが多く、大きく2つに分かれるようです。梗塞(詰まる)と出血(切れる)です。私は後者でした。
現在では、その比率が13対1と、圧倒的に梗塞の割合が多いそうです。その例に漏れず、入院なさっている多くの方々が梗塞でした。
 脳疾患の特徴は「後遺症」と言っても過言ではありません。
脳内の様々な神経回路が壊死または遮断されてしまい、一度遮断されたパイプは、そう簡単にはつながってくれません。
なんとか元の状態に戻そうと努力する行為をリハビリと呼んでいます。
罹患部(血管部位)は、詰まったり切れたりしない状態になれば、それはそれで外科的治療は終息を迎えますが、その後の治療が長期戦になります。
私の場合はリハビリと言っても、体力回復に重点が置かれたのみで済みました。
重症の方々はこれからが努力の日々ということになります。最終的な回復は、自立した生活を送れる状態になったときといえそうです。
 さて、入院時の外科的治療をパソコンで言う「ハードウエア」とすれば、入院中の細やかなケア(排泄の援助や点滴、
そして患者たちとのコミュニケーション)は、「ソフトウエア」だと思いました。
中でも四六時中密接な触れあいをする看護師さんや理学療法士さんたちの奮闘ぶりに胸を打たれました。
熱や血圧を測る。車いすを準備しトイレへ連れて行く。寝たきり状態の方の排泄の世話をする。
自分でお風呂へ入れない方を入れてあげる。夜間、異常がないか見回る。
それぞれを総合すれば、かなりの肉体労働といえるでしょう。
それだけでは何か殺伐とした感触だけになってしまいがちですが、それを大きくカバーするものが、コミュニケーションです。「ふれあい」です。
 これこそが看護師・理学療法士さんたちがなさる一番重要な「治療」だと思いました。
 まず、そのほとんどの方が「明るい」・・・。「笑顔」で接してくれることです。
よく飛行機に乗り込むときのキャビンアテンダントの方々の笑顔が取り上げられたりしますが、
まさにその域を飛び越えて世間話にまで踏み込んでいただける方々だということです。そればかりか自分の身の上話まで飛び出る始末。
これは私だったからなのかなとも思ったのですが、私が子どもたちと触れ合う仕事であること、
また、長ければ一部の子どもたちとは、成人に達した今でも、交流があるからかもしれません。私の面倒を見てくれた彼らは、教え子さんたちと同じくらいの年齢だったのです。
 一言で・・・かれらは「すごい」です。それしか形容できません。
ある方は、北海道、ある方は青森、ある方は福岡、そして極めつけは、中国(5年前来日、日本の国家試験に合格)から・・・。
 皆、こころざしを持って親元を離れ奨学金を使い、夢を実現し今に至っています。
それでも働くことは、当たり前ですが「苦労」を伴います。
それをけっして患者さんたちには見せずに、患者さんたちへの気遣い、心遣いを最大限に奮闘しています。そこに欠かせないもの「笑顔」・・・。
 私の入院期間は3週間でしたが、「今の若者、まんざらでもないぞ」と思える出会いがたくさんありました。
入院中、回復するにつれ、徐々に彼らを手伝うことは出来ないかと考えるようになりました。
普通に歩くことの出来る私は、同室の患者さんの上げ膳をしたり、個々にかかっているカーテンを開けてあげたり、くらいでした。
しかしそれは、看護師さんたちにとっては、あまり見られない光景だったらしく、
退院時には「いろいろお手伝いいただきありがとうございました」と、お礼を言われてしまったくらいです。(私は不満たっだのですが・・・。)
 まだまだ20歳そこそこの看護師さんたちが、ベテランの看護師さんたちと連携をとりいきいきと働いている光景は、私の中の美しいドラマとして残っています。
 いきなり「くりたさーん」と言って、声をかけてくれる。
私の目線の高さ(ベッドにいる)にしゃがんで、声をかけてくれる。「じゃーん」と言っていきなり現れる。
そのどれもが教育の現場でなくてはならない子どもたちとのコミュニケーションであると私は強く感じました。
その触れあいこそが、子どもたちの成長にとって必要であること、心の土台作りに欠かせないこと。成績という語彙が薄っぺらく感じます。
 そして何にも変えることの出来ない世界でたったひとつの「こころの学校」が家族であるということ。
その中の担任の先生は「おかあさん」・・・?。それともおとうさん、おばあちゃん、おじいちゃん、おにいちゃん、おねえちゃん・・・。
私・・・? どうかおかあさん、これからもお子さんと「笑顔」でずーっと触れあってあげてください。
子どもたちは皆、社会へ旅立つときまで、自立するまでは「患者さん」かもしれません。患者さんたちは笑顔を待っています。
そして患者さんたちは応えます。      「おかあさん、ありがとう。」      ニコッ! 





第317号
「淡々と」
 今年、初の国立大学合格者が出ました。
と同時に、その合格という成果とは別に、それまでの彼女の淡々と取り組む姿を他の高校生たちも少なからず見ていたせいか、
俄然、彼らの向かい方にも変化が出てきました。
「自分歩き」という旗を掲げ歩んできたことが、今の私にとって「これでよかった」と、自信という実りをつけてきたのかなと感じています。
 Mちゃんは、小学校6年時にやってきました。もともと語彙力に優れていたため、中学校初期から力を発揮しました。
5人兄妹の末っ子だったせいか、お姉さんお兄さんが置いていった、数多くの本と触れ合う時間が多かったそうです。
それが語彙力をつける大きな要因になったと思います。1冊でもお気に入りの本が見つかれば、何回も読み直したくなるものです。
さらにその魅力を味わいたいため、分からない語彙や不安な語彙が表れると辞書を引かずにいられなくなる。
そんな習慣が彼女の学力の土台を作っていたようです。ですから、教科書なども一度読めばかなりの割合で習得できてしまうといった具合です。
知らないうちに身についていたものは語彙力だけではありません。
向かう姿勢にも、ある種の形が作られます。他人と争うような勉強からはほど遠いスタンスを手に入れています。
例えば、社会のテストが近づくと、先生の出題する問題を隅々まで予想し取り組みます。何としても100点を狙う・・・。
時事問題などがそれにあたりました。私もずいぶん聞かれました。「時事問、どんなのが出ると思いますか。」
 今を精一杯に生ききること。しかも周りを意識せず、淡々と向かう。
その積み重ねが、結果はどうであれ自分の人生への力となっていきます。
たとえそれが失敗や敗北であったとしても、その取り組みの過程が人を実りへと導いていくものと思っています。
まさにMちゃんは、自然に「今を精一杯」を手にしていたのだと思います。
 淡々と我が道を我がスピードで歩む。何と堂々とした姿なのでしょう。
まだまだ学ぶことの多い若い方々にとっては、不安だらけの毎日であると思います。
その中にあって、一本の道を唯ひたすらに歩む、目的がある・・・。
それは合格という目的よりも、その先、どのような道で社会への貢献を果たすかという目的です。
先のMちゃんは、デザイナーになりたいのだそうです。
(大学は工学部)それでご飯を食べられるかということよりも、何かを成し遂げてみたいという自らの夢の表れだと思います。
 小学校の時代から、人と比べられながら過ごしてきた子どもたちは、勉強を競うものとして捉え始めます。
当然、その評価に敏感になっているお母さんやお父さん、ご兄弟などの影響を受け、ただ「点数」だけの世界をさまようことになります。
下がった、上がった・・・。自分が上がれば、誰かが下がる。
当たり前のことなのですが、自分さえ良ければそれで良いという利己主義を正当化するような制度です。
他人が順位を下げるのを楽しみにしてしまうような感情が芽生えてもおかしくありません。
Mちゃんは、高校生活途中からは、順位をまったく知ろうとはしなかったと言います。彼女の高校では、職員室へ聞きに行けば教えてくれるシステムだそうです。
 高校受験にしても、初めから安全合格を考え、目標を低くし受験する子もいれば、自身の目標がしっかりあるからこそ、チャレンジする子もいます。
結果、落ちたとしても、前者、後者、どちらのお子さんが人らしく生きようとしていたか・・・。その時を精一杯に生きようとしたか・・・。
 今を淡々と生きようとする姿勢こそ、今の子どもたちが必要としているものかもしれません。それを奪おうとしているもの・・・。
 私はこれからも「自分歩き」を掲げ、子どもたちが前へ前へと歩もうとする姿を、目を細めながら見つめていきたいと思います。
 まず、自分で自分の歩む道を考えてみよう。それには社会が、身の回りがどのように動いているのか、知る必要があると思います。
それが「旅」(いろいろな意味で)かもしれません。学校と家だけの往復になりがちな、今の子どもたちの生活環境・・・。
であるなら、「旅」の先々で出会う「人」や「できごと」、その道の端々にぶつかりながら転びながら、何が原因で転んだのだろう。
何が原因で歩めないのだろうと考える機会を多く持ってください。きっとどう生きるべきなのかと、深く考えるときが現れると思います。
 小さいお子さんの時代には、そのようなことを考えることは難しいでしょう。その時にかけてあげる言葉には責任があります。
「がんばってるね」それだけで十分だと思います。この「がんばってるね」を強く推奨する先生がいらっしゃいます。
愛知教育大学名誉教授 中野靖彦教授です。「がんばったね」という過去形ではなく、今まさに頑張っているその過程に評価を与えています。今、まさに「がんばってるね」。
 テストが最悪で、順位が大幅に下がっても、それを糧にして必死に向かおうとしているならば、その瞬間が「がんばってるね」の瞬間です。
成績というものはそう簡単に上がるものではありません。
少なくとも半年単位の長い目で捉える必要があると思います。さあ、今日から褒めてあげてください。「がんばってるね」しかも淡々と・・・。





第316号
「ある日の投書」
 ある日の新聞内の投書欄、中学3年生からの投書が載っていました。「宿題より読書時間ほしい」という題名で書かれた内容をご紹介いたします。

 私は読書が好きだ。だが、中学生になり、思う存分読書を楽しめるのは長期休みの間だけになった。
今回の冬休みは宿題が多く、読書が出来なかった。宿題が学力向上を手助けする目的であることは理解できる。
先輩によると、高校ではさらに、宿題が増えるそうだ。学校では、「自由には責任が伴う」と教えられる。
ならば、義務教育ではない高校において、宿題はいらないのではないだろうか。どれほど勉強するかは個人の自由のはずだ。
宿題は受け身の勉強である。それに追われて、じぶんのやりたいことを諦めていたら、命令されたことをこなすロボットと変わらないと思う。
宿題をなくせまでとは言わない。ただ、せめて、高校では、長期休みの間の宿題を減らしてもいいではないか。

 スマホの普及によって、子どもたちの読書離れが進み、OECDの学力調査では、15才の読解力が4位から8位に順位を下げたそうです。
今の中学2年生たちが大学受験をするときから、記述式問題に大転換されるそうです。
ある大企業では、あまりにも新入社員たちの読解力が低いので、入社してから3年間は、毎月読書感想文の提出義務づけをしているそうです。
 読書離れが大きな要因として叫ばれている中、この投書のように読書が好きな中学生もいるのですね。
 世の中、成績優秀なお子さんを望まれる保護者の方々が多いと思います。百歩譲って、悪いより良い方が・・・。
の方々を含めればほとんどだと思います。
 地元中学校の定期テストも終わり、高校入試も終盤を迎え、勉強に対するチャレンジの季節が終わろうとしています。
高校ではこれからが定期テストです。
言えること、『テストが終わればやらない』
私は学びとはそんなものなのかと寂しさを覚えます。定期テストが近づく約2週間前になると、各中学校ではテスト範囲表が配られ始めます。
捉え方によっては、「勉強は2週間前から始めれば良いのだよ。」と聞こえるような気にもなります。
「それまでは部活動に専念しなさい。」と言われているようにも聞こえます。現に定期テストが終わった日から部活動は再開されます。
子どもたちはゆっくりと、のんびりとした時間を過ごす余裕はありません。
先ほどの投書のように、読書がしたい中学生にとっては、たまらないでしょう。
今の子どもたちの感覚は、ほとんどが勉強はつまらないものしての認識が当たり前のようです。
テストがあるから勉強する。成績があるから勉強する。入試があるから勉強する。お母さんに叱られるから勉強する。
だから終われば遊ぶ。
何か寂しい・・・その理由・・・子どもたちは成長します。成長しようという勢いが子どもらしさを醸し出します。
ですから、生きようという勢いが失われたとき、子どもらしさが見られない状態になります。
宿題が終われば、他はやらない。結局学校側は、毎日の学習習慣をつけさせようと宿題を出します。
塾に行っても宿題が出ます。では宿題を取り去ります。「やったー」と言って何もやらない・・・。
だから休む間もなく宿題を出す。悪循環の何者でもありません。
小学校入学時からその生活が当たり前になっていれば、その悪循環にも気づくこともありません。
「今までの先生は宿題を出してくれたのに、今の先生は出してくれない、だからうちの子はさっぱり勉強をしなくなった。」
そのような感情を抱かれた保護者の方々は多いと思います。
悪循環にお気づきになっていないだけです。
大切なのは、子ども自身が自らの意思で歩もうとしているか・・・。
その生きようとする意欲を育てることが真の教育であり、学びではないのか・・・。
ある日、ある生徒(中学生)が申し出ました。「私、英語が苦手なので英単語帳を作りたいのです。」
自らが自らを見つめた結果の判断、そして自らの意思で申し出た・・。
現在は英語が最悪の状態とのこと。この一歩の意思表示が生きることではないでしょうか。
ほとんどのお子さんが、勉強しろって言われていないからやらない。
宿題がないからやらない。となってしまっている中、この子は「100点」の生き方をしようとしています。
先ほどの投書の中学生も、「100点」ではないでしょうか。自分の好きな読書がしたい。
だからせめて高校へ行ってからは自由にさせてほしい・・・。なんと謙虚なことか。
私なら、「今日、精一杯にやってみたいことがあったら、やってみよう。
今日、本気で取り組んでみたい勉強があったらやってみよう、応援します。」そう宣言したいのです。そんな学校を創ってみたいのです。





第315号
「つながり」
 雑誌PHP2月号に興味深い作品が掲載されていました。
 筆者(88歳)が小学5年生当時、図画の時間での発言が、その後の筆者に大きな影響を与えるという内容のものです。
 筆者は発言しました。ある児童の図画に対し、「センセイ、この絵は間違いです。
庭が真っ赤に塗ってあります。庭の土は茶色に決まっています。赤い土なんてありません。」
 実はこの絵を書いた児童の作品は、夕焼けで空が真っ赤だったのを受け、庭の土も真っ赤にしたものだったのです。
先生が作者に尋ねたのを受けて、そのように答えました。
さらに、「たとえば夜だったらどうだろうか?黒っぽい灰色の土に見えるかもしれない。」その場がしーんと静かになったそうです。
 筆者は当時、副級長にもなっていたくらい中心的存在だったそうで、相当のショックを受け、その日以来消極的な性格になったということです。
その後、2学期になり、先生から呼ばれ、秋に全校の写生大会があるので、思うままに描いてごらんと促されました。
もちろん赤い庭の件があったので、今でいう「リベンジ」ですね。筆者は丁寧に丹念に描いたそうです。
そして先生から「イチョウをよく見て描いている。特に葉っぱが面白い」とほめてもらったそうです。
 その絵は努力賞に選ばれ、展覧会場に飾られたそうです。筆者は褒められたことで、徐々に自信が戻っていったそうです。
 30年後、同級会の折、そのことを当時の先生に聞いてみたそうです。「はっきり覚えているよ」と答えてくれたそうです。
 実に70年以上もの時を経て、感動が培われてきたことに深く感銘いたしました。
 人は誰だって間違える、ミスをする。それは積極的な心の動きがあってこそのこと。
当然打ちのめされる。しかしそれを傍らにいる人がしっかりと見つめ、その心の動きを自分のことのように感じ入ってくれている。
その現れが、「写生大会に描いてごらん」の一言につながり、その少年が、またまた元通りの快活な元気な少年に戻ってゆく。
 この少年と先生のつながりは、当然人と人とのつながりです。学校へ行っているときの傍らにいる方の存在は、先生であったり、友だちであったり。
では、ご家庭での人と人のつながりは、当然お母さんやお父さん、きょうだいになります。
その中で発せられる様々な発言や行動、当然学校以上に間違えや失敗が起こっていると思います。
 その時のお子さんの心の中を冷静沈着に眺め、我が事のように心に刻み、そして「生きてやるぞ」という「ひと」らしい心に戻してあげる策を講じているでしょうか。
 私は猛烈に先ほどの「先生」に逢いたいと思っています。どんな先生なのだろう。
30年もの歳月が過ぎても、その場面をはっきりと覚えていらっしゃる深い思いやりと優しさを持った先生。
 私も今の仕事に従事しながら、常に自分を戒めていることのひとつに、「感情的は良くないよ」というのがあります。
子どもたちと触れ合って40年が経った今でも、基本はそこにあります。
週が始まり、月・火・水と、日が進むにつれたまってくるストレスや疲れ、それが分かっていても、イライラ感を封じることがなかなか出来ない自分。
 同様の感情をお持ちになっているお母様やお父様がいらっしゃると思います。
 何でも話せる家族、何でも相談できる家族。そんな家族が毎日をきっと平々凡々と過ごせるのかもしれません。
「今日ね、会社の〇〇さんに叱られちゃってね。ちょっとヘコんでるんだよね。」なんてお子さんに愚痴るのも家族のしあわせのテクニックのひとつかもしれません。
「じつはぼくもね、同じクラスの〇〇くんにこんなこといわれちゃってさ、げんきないんだ。」なんて、返事が返ってくるかもしれません。
 よく、ガマンガマンと頑張ってしまう方がいらっしゃるかもしれませんが、ガマンの質の違いに気づき、ガマンしなくていい場面、ガマンする場面を学習し直す必要があるのかもしれません。
 積極的な子、はきはきとした子、元気な子、頑張る子、どれもこれも子どもらしさを表す当たり前な表現です。
しかし今の世の中、「失敗したらどうしよう、間違えたらどうしよう」と、なかなか自ら動こうとしないお子さんが多数見受けられます。
当然勉強の世界です。ゲームは別格みたいですけどね。
 お子さんの傍らにいる方が、お子さんのこころの隅々まで感じ入る努力をする必要があると思います。
 「先ほどの先生、先生の心根をしっかりと引き継いだ教え子さんたちが、さらに多くの教え子さんたちを育てていけるよう心より願っています。」
 私もまだまだ未熟だなーと深く感じ入る作品でした。
 さてと子どもたち、今日もたっくさーんまちがえよー! ありがとね。





第314号
「意欲」
 先日、OECDよりPISA(学習到達度調査)の結果が発表されました。高校一年生が対象で、科学・数学ともに上位に位置づけされたそうです。
トップはシンガポール、日本は一時、かなり成績を下げていたそうですが、「脱 ゆとり教育」の下、それ以降、文科省は頑張ったということでしょうか。
 ここ数年、ここへ来る子どもたち(中学生)の様子を見ていると、あることに気がつきます。
定期テストが近づいてくると、あれだけ忙しかった私が暇になることがたびたび・・・。
なぜなのかと見て回ると、皆一様に、学校への提出物に躍起になっています。
教科書に付属の問題集があり、その問題集にぴったりの書き込みノートがあり、それを指定された日時までに、指定されたページまで仕上げて提出するとのこと・・・。
 つまり宿題ということです。子どもたちの中に広がっている宿題の定義・・・終わればいい。
 結局、わかっても分からなくても埋まっていればよいわけで、学びの中に必要な「なぜ・・・」を解決したときの心地よさを味わうことなく書き込んでいます。
よい方へ解釈すれば、やらないより少しでもやった方がよい、ならばやらせよう・・・。というのが文科省の本音かもしれません。
 ここへ通う子たちの中には、学校での進度に関係なく自由に先を学んでいる子がいますが、その子たちの普段の表情からすると、本当につまらなそうな表情です。
しかしテストが終わると、また先の勉強を意欲的に進めています。
 「やる気」にだけ的を当てれば、宿題はやる気なし、それ以外の自由な取り組みにはやる気十分。
その行き届いた問題ノート提出義務は、どうやら中学生に留まらず、高校生たちの中にも浸透しているようです。
 進学校へ通っている「M」さんの高校では、一切提出はなし、自主的な取り組みを尊重しているようです。
一方、中堅の進学校へ通っている、「S」さんの学校では、しっかりノートチェックがあるようで、書き込みに勤しんでいます。
 高校でもここまで管理されているのか・・・。少しばかり驚いたのが率直なところです。
 ここまで管理されれば、PISAの結果が思わしくなかった過去を底上げできるのも当たり前か・・・。と、感じました。
 同時に、自ら意欲的に取り組むかという「意欲」を調査したところ、日本はかなり下位に落ちてしまうのだそうです。
 やはり・・・。日本という先進国のプライドを堅持させるための大人たちの計画に、素直に従う今の子どもたちがいます。と、考えたくなりました。
 いずれにしても、いつかは学校を出て行くわけで、その学校で意欲を失った状態のまま社会やその先の学舎へ旅立ったとしても、
こころの土台がしっかりとしていなければ、「何を学んできたのですか」とがっかりされてしまいます。
 学校なら「学ぼう」、社会なら「がんばろう」、生きてやるぞという気概を先頭に、力強く生きるのが学校で学んできた若者たちの姿だと思います。
何か元気がないのですね。
 宿題が出されれば、終わればそれでおしまい。あとは何もしない。高校が決まれば、それでおしまい。もう机に向かわない。
大学が決まれば、それでおしまい。アルバイトに専念。
 学校という囲いの中で、彼ら彼女らは学ぼうとする力を育んで卒業する。
まちがえても、だめでも、何回でもチャレンジし続ける力を育む。それが本来の学校の姿だと思うのですが。
 テストが近いから勉強しなきゃ。受験があるから勉強しなきゃ。お母さんに叱られるから勉強しなきゃ。
スマホを取り上げられるから勉強しなきゃ。
 数学って楽しいよね、だって、答えに行き着くまでにいろいろな考え方があるんだもの。
「この前のテストの時、最後の文章問題、考え方が3つ出てきたので、それを全部書いてたら時間になっちゃった。他の問題解けなかった。
それをお母さんに話したら、『あなたらしいわね。おかあさんそんなあなたが大好きですよ。』って言われちゃった。」
 本当の学びに気がつき、夢中になっている姿を、お母さんは頼もしく思っていたのですね。
 私はここに通うほとんどの子どもたちに、そんな気持ちになっていただきたいと願っています。
 ある1年生の子が、8+5のような繰り上がりの計算を、指を使いながら時間をかけ解いていきます。
さすがにこのままでは、2学年以降筆算が始まるとかわいそうに思い、さくらんぼ計算を丁寧に学習していきます。
「今度は、この四角の中に答えがはみ出ないように書けたら、くじが引けますよ。
(ここでは、一人一人の力にあわせて、くじを引いてもらいます。)」「よーし、がんばるぞ!」と言って、夢中になって解いています。(くじを引きたいのです。)
内容は確かにすでに終わってしまった単元かもしれません。しかし、その子が夢中になっているその姿が『学び』そのものです。
その夢中になっている「こころ」を育むのが私の仕事だと思っています。
 今も目の前で、黙々と取り組む高校生たちがいます。
自分のスピードで、学びの楽しさを味わい堪能し、その気持ちのまま次のステップへと旅だってください。ありがとう。





第313号
「意識」
 スポーツで良くあると思うのですが、練習ではとても調子が良かったのに、いざ本番となると全く・・・。
「上がる」という現象なのでしょう。周りの人たちが自分をどのように見ているのか・・・。失敗したらかっこわるいなー・・・。
 様々な「邪魔者」が心をよぎります。終わってみて、ほとんどの選手が思うこと・・・。「意識しすぎ」
 私たち大人の世界の日常も全く同じ、例えばファッション、今日はどんな服装で出かけようかな、これは一昨日着たし、この色は連続になっちゃうし・・・。
で、気にしているのは本人だけであり、周りの人たちにはあまりわかっていないのが現実です。
自分ではあまり満足のいった格好ではないけれど、仕方がないか・・・で選んだ服装、歩きながらもキョロキョロ、こんな格好悪いところ見られたくない・・・。
 先日もある中学生が前髪を気にしている様子。自分で切ったとか、絶えず前髪に手を触れています。気になるのですね。
しかし周りの子たちは気にしている様子はありません。
 さて、ここまでは見栄えのお話。子どもたちは毎日、周りの目を気にしながら生活しています。
男の子は、自分の立ち位置、つまり、いじめられなくてよい位置にいるのか、何か「ヘマ」をやらかすと、とたんに飛んでくるいじめに近いヤジ・・・。
体育の授業などは結構緊張するようです。みんなが見ているし、ここで「ヘマ」すると・・・。ビクビク・・・。
女の子たちは周りの会話に自然と耳が行きます。目の前の子としゃべっているのに、耳は後ろを気にしています。「私の悪口言ってないかな・・・。」
 最も顕著に表れるのが、テストの返却です。結構多いのが女の子たちの行動・・・テストの点数欄を折って隠す。
 これをお読みになっているお母様の中にも、あるあるボタンを何度も押される方が・・・。
 意識がなければ、きっと上手くいくはずなのに、自然に意識が働いてしまう。そんな自分が大嫌い、と思っていらっしゃる方は多いのではないでしょうか。
 ある日のことなのですが、体操男子団体で金メダリストの白井健三さんがTVの中で気楽に語っていました。
「失敗の大切さ」ですね・・・。いつもの表情で、にこにこしながら語っています。リラックスした雰囲気が漂っています。
何回失敗したのだろう。失敗しすぎた表情なんだな。私はそう感じました。
幼少の頃から行ってきた体操につぎ込んだ時間は、彼を「ひと」へと成長させていました。
周りの方々からの影響もあると思います。ご両親、兄弟、コーチ、友人・・・。周りを見れば意識する方々ばかりの中で、「失敗の大切さ」をいとも簡単に言ってのける・・・。
子ども達に持って戴きたいこと、「意識」はいらないよ。
ここへやってくる子ども達のなかで、意識が邪魔をし、身動きが出来なくなってしまった子たちが多くいます。
「自分のバカさ加減がバレたらどうしよう。」きっと普段の生活でその部分をつつかれ、深く傷ついた経験があるのかもしれません。
また、幼少の頃から、周りを意識する「クセ」が身についてしまっており、いつも心ががちがちになってしまっている。
だから、今、自分がやっている勉強も「真っ白」になってしまって手がつかない。
思春期を迎え、心が発達すると、ますますその兆候は大きくなるのかもしれません。
小学校1年生の元気な子がいます。周りを意識することが全くありません。目の前の問題が楽しくてたまらない様子です。
問題が時間内に終わらないと、自ら「のこり、おうちでやっていいですか。」なんと、自分で宿題を作ってしまいます。笑顔も満点です。
私はこれが本物の宿題だと思っています。続きの勉強を家でもやってみたい・・・。
もう一人の小学校1年生がいます。学校から出された宿題を渋っています。意識が影響しているようです。
しかし、徐々にその糸は切れ始めます。どんなに易しい問題であっても、誰も何も口出ししない雰囲気があるとわかってくると、結構な勢いで取り組み始めます。
歌いながらえんぴつを走らせます。
夢中になって取り組んでいる姿が100点、バツが出てきても気にしないことが100点。
3年生になる子が、計算に取り組みます。当初行っていた頃よりもかなりなスピードでこなせるようになってきました。
ある日とってもすてきな言葉が出てきました。「わたし、たしざんだいすき。」自分は出来るんだと確信を持った瞬間なのでしょう。
たとえそれがその場限りであったとしても、その時の「気持ち」が生まれたことが100点。
金子みすゞさんの言葉がよぎります。「みんなちがってみんないい」
もうひとつ、世界にひとつだけの花の歌詞、「世界にひとつだけの花 一人一人ちがう種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」
結構「意識」を前面に出していらっしゃるのは、お母様のプライド・・・ごめんなさい。でも、子は苦しんでます。
子どもにとっての持って生まれた大切な宝物・・・「笑顔」ですよ。
その「笑顔」を奪い取るようなことだけはしたくありません。みんなありがとね。





第312号
「アルゴリズム」
この冬、「筆算」という演題で連盟での講座を持つことになりました。
筆算・珠算・暗算と、よく対比されるそうですが、それぞれがそれぞれ特徴を持っており興味深いものがあります。
その中で、義務教育の中に大きく取り上げられているのが「筆算」です。その理由としては、計算の過程が失われずに残るということがあります。
どのように児童生徒が考えを巡らしているか、確認をとることができます。
基本的には四則計算が主体になりますが、中学校、高校と進むにつれ、筆算の内容も複雑化していきます。
日本で使われている教科書は検定教科書と呼ばれ、内容は厳密にチェックされます。昨今では少々物議を醸したりもしておりますが・・・。
大きく分けて4~5社の教科書が、各自治体で選定され使用されています。内容はほぼ同様のものになります。
当たり前といえばそれまでなのですが、文部科学省で決められた指導要領に沿ったものになります。
所々指導時期の相違はあるものの、指導要領を逸脱したものは、当然検定を通りませんので内容は酷似したものにならざるを得ません。
その中にあっての「筆算」。
たしざん・ひきざん・かけざん・わりざん、保護者の方々も記憶に残っていると思います。
脳裏に浮かびましたでしょうか。現在の計算法と、あまり計算の過程に変化はないはずです。
これは教科書があり、それを使用して先生が指導することで、おのずとスタイルは画一化されていきます。
教科書の内容が大きく変化しない限り、子どもたちのえんぴつの走らせ方はそう大きく変わることはないと思います。
一方アメリカ、文部科学省が設定する「指導要領」はありません。教科書検定もありません。教科書は誰もが自由に発行できるのだそうです。
選ばれる教科書を作成するわけですから、自然と競争になります。
内容も豪華絢爛、付随する補助教材も豊富、結果とても厚い教科書になっていきます。
この教室にも数冊あります。確かに大きいし、分厚い。
しかも児童生徒がわかりやすい内容であれば、さらに良し。教師が楽ですから・・・。
選択は各州、または州内の学区に任されているようです。わかりやすい、使いやすいを優先すると、分厚くなるのもわかるような気がします。
ひとりでどんどん進めていける内容であれば、先生も飛びつくのではないでしょうか。
で、「筆算」・・・。興味を持った私は、アメリカのシカゴ大学付属の小学校で作成している、筆算指導の動画を見る事ができました。
シカゴ大学・・・今までに89名のノーベル賞受賞者を排出しています。教員として活躍している方に、バラク・オバマ現米国大統領がいます。今は休職中(あたりまえ)。
その動画を見てまず先に感じたこと、「考えさせてるな」です。
「このようにやりなさい」というような画一性が感じられません。なぜならどの算法も複数あるのです。
中でも興味深いのが「ひきざん」、なんと引き算なのにもかかわらず、過程がすべて「たしざん」で行われています。
私たち日本人にとっては不可解きわまりない内容です。たし・かけ・わりは2種ずつですが、ひきだけは3種あります。
どれも教員が丁寧に(?)説明しています。すべて英語なので・・・。
つまり、やり方を覚えなさい。そして覚えたかを確かめます。
→テスト、といった日本的な内容ではなく、
「このような考え方をしながら正しい答えにたどり着くんですよ、わかりましたか、皆さんも他に良い解き方があったら考えてみてはどうでしょうか。」
といった子どもたちをわくわくさせてしまうような内容になっています。
つまり計算ができるようになるにはたくさん計算をしましょう。そうすれば計算が速くなって、1番で終われるようになりますよ。のような雰囲気ではないのです。
日米どちらも長所短所を感じますが、学びにとって大切な「考える」ということに特化すれば、アメリカのこの内容は評価できるのではないでしょうか。
おそらく計算スピードでは、日本の方がはるかに速いような気がいたします。
「考えを楽しむ」という成長期に是非養っておきたいものが、このアメリカの指導法には強く感じられました。
考えの過程・・・それこそアルゴリズム。日本では今、教科に「プログラミング」を取り入れようとしています。
パソコンを相手に、プログラム言語を連ねながらソフトを作り上げていきます。アルゴリズムです。
創造力を培う上では、日本はかなり後進となりそうです。
誰も気づくことのなかった新しい道を築こうとする習慣、これこそが成長期の子どもたちに必要なものだと思います。
それには限りない間違え、失敗、挫折を繰り返すことと思います。
先日もいました。学校からの宿題、終わるやいなや、さっとしまって次の取り組み・・・。確認させてもらうと、結構な間違えが・・・。
終われば良い、という安易な感情がかなりを占めてしまっています。
こつこつやって、100点で学校に提出、私は私、僕は僕、金子みすゞさんではないのですが、
「みんなちがってみんないい」の心構えで、マイペースで、時々は「えー、どうしてこうなるのー、不思議だなー。」と、過程を楽しんでみることも大切だと思います。
そんな時間が子どもたちにたっぷりと注がれる時代がやってくることを、切に願っています。
ここではそんな気持ちで向かってくださいね。





第311号
「手書き」
 あるサイトで興味深い記事を発見しました。
 アメリカの教育心理学、幼児教育、心理学・脳科学などの専門分野の各教授が、
「手書き」の効果について研究したものが紹介されていました。その中の記事を箇条書きに表します。

a. 字がうまい子の提出物は、教師にとって読みやすいからいい点数をもらいやすい。
b. まだ字がうまく書けない子は、文字をきちんと書くことに意識が集中してしまい、自分が書く内容に注意が向かない。
c. 幼稚園に入る前の段階で、細かい手作業(微細運動能力)ができる子は、就学後の成績がいいことがわかった。
d. 小さな子どもが書く文字は汚くて、筆跡は定まらないかもしれない。だが文字を書こうとすることが、物事を学ぶ
助けになる。
e. パソコンでノートを取る学生は、手書きでノートを取る学生よりも、内容をよく覚えていないし、理解も低い。

 さらに具体的に説明している部分です。
 きわめて重要なのは、視覚と言語が交わる領域である「紡錘状回」(ぼうすいじょうかい)、
脳の下部両側にある部分で、視覚刺激を文字や書き言葉として認識する部分、
この部分が発達することで脳全体の活性化が促される。普通成人は、文字を視野に入れることで、
この部分が活性化することがわかっているそうです。
 子どもの脳の発達にとって脳全体に十分な血流が促されることは、スポーツ選手が肉体を鍛えることと同様、
脳内部の血流が常に栄養豊富な状態になるわけで、脳は大きくならなくても、
脳全体の機能は、かなり上向くことが予想されます。つまりスタートダッシュ可能な肉体同様、
脳内部もスタートダッシュ可能になると思われます。
 まとめますと、幼児期、または脳が発達段階にある時期に、細かい手作業「手書き」をすることで文字への理解を進め、
紡錘状回を発達させることは、成人と同じ脳内血流を早期に手に入れることが可能となる、ということのようです。
 有酸素運動が体に良いとよく言われます。ある程度の早歩きをすることで、運動している部分は、
下肢の大腿部以下が中心であるにもかかわらず、やがて汗が額から噴き出てくるのと似ているかもしれません。
全身の血流が促され、体に良いというわけです。一部分だけを鍛えても、偏りが発生してしまうことになります。
 興味深い内容がさらに続きます。ある教授は、小学校4年生ころからブロック体よりも筆記体のほうが、
スペリングと作文の能力がアップすると言っています。日本だと楷書体ではなく草書体・・・。
これは少し飛躍しすぎかもしれませんが、平仮名で縦書きに手紙文字を書くようなものと考えた方がわかりやすいかもしれません。
 それに似ているのが、学校でよく行われている連絡帳に書く先生からの一言・・・。
詳しくはわかりませんが、先生方は結構手書きで縦書きが多いように感じます。
さらに字が上手な方が多い・・・。
子どもたちは返事を書くのかどうかわかりませんが、
交換ノートなどを実践している先生方は、当を得た対応と言えるでしょう。
 さて、ご家庭ではどのような実践が行われると・・・。
 現代社会は、お母様が働いていらっしゃるご家庭がとても多くなっています。
ひょっとすると、お子さんが学校へ行かれる前にご出勤という方もいらっしゃると思います。
そんな時、お子さんとの間で交換ノートなどは最適かもしれません。
縦書きで流れるようなお手紙・・・だんだん様になってくれば、
子は自分の心の中に浮かんでくる感情をつぶさに文字変換することが可能になります。
内容は学校であったこと職場であったこと、何でも結構です。常に心と心の会話が文字化されます。
お母様が時折使われる大人びた表現は、やがて子へと伝わり、
教科書で引用されていない語彙表現として蓄積、作文などで威力を発揮するかもしれません。
 もっと良いことは、そのように常に家族とのコミュニケーションが文字で行われることは、
将来社会へ旅立つであろう時の大切な基盤となることです。
学校での成績だけを追い求める日々を過ごした結果、他人との触れあいから遠ざかり、
成績は良くても他人との接触が苦手なままだと、社会順応はかなり厳しくなります。
大切な他人への気配り、思いやりなど、学力よりも大切なものは全く培われぬまま成人を迎えることになります。
 幼少時からの「書写」などは、大切な脳発達の具体物かもしれません。
もちろんそろばんもその一つになるのかもしれません。
文字を手に入れて、感情表現豊かなこころを手にする。
灰谷健次郎さんの本の中に、数々の子ども達の作品が登場します。その中の一つ。
先生があまりにも心打つ詩であったため、赤ペンを入れなかった。その少年からの返事です。
ノート 
ノートあけたら 赤ペンがぜんぜんついていなかった
読んでみると「よごしたくなかったのです」という言葉が書いていた
ぼくはその時 はん泣きになった 
よごすも よごさんも 
このノートは 先生のノートでもあるんやで・・・
この少年の思いやりは、大人へ「気をつけっ」て言っているようです。ありがとう。





第310号
「謙虚につつましく」
 ある日の新聞に、「北の国から」倉本聰さんの記事が載っていました。
私もこのドラマが放映された頃は、大自然の中での暮らしにあこがれていました。
そこへやってきた父と子2人の計3人の生活、その土地に暮らす様々な人々、大自然と父の愛を受け、2人はすくすくと育ちます。
やがて2人はそれぞれ成人し、父は自身が作った石の家で暮らします。やがて、齢を重ね息子と娘に遺言を書きます。
 「金なんか望むな。倖せだけを見ろ。自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。」
 残してやるものなど何もない。父は「ことば」を、崇高で力強い「ことば」を、子どもたちに贈ります。
 長男は地元の中学校を出、そのまま東京へ就職。
都会の冷めた空気の中で傷つきながらも、そのたびに父を想い過ごします。
娘は看護師になりながらも、懸命に生きようとします。
 父役の田中邦衛さんの泥くさい、汗くさい演技は、私の理想の老後です。
人の魅力を教えてくれます。まだまだ足もとにも及びません。
家族を想うストレートさ、喜怒哀楽を何の躊躇もなく外へ出す。
そこには金銭では手に入れることのない本物の「しあわせ」が漂います。
 都会の慌ただしさの中であっという間に流れていく時間。それはひとりひとりが自分だけに許された終演への道。
その道を味わうことなく競争の中に身を投じ、ストレスを感じ、周りを意識し、比較し、「私の家は上流だ、中流だ、下流だ・・・。」
 我が子の出来を親類やご近所さんと比較し、イライラを募らせる・・・。そしてそんなはずではなかった失言を子に浴びせ後悔する・・・。
 そんな毎日を、瞬きをするのも忘れてしまう位のスピードで過ごしています。
 夏休みが終わろうとしています。ご確認ください。
 我が家の子どもたちと、すてきな想い出つくりができたのかな・・・。
 やがて子が父になり母になり、子に何かを残すときが来るのかもしれません。
そのとき、五郎役の田中邦衛さんのようなプレゼントを用意できたらどんなにすてきだろうと思います。
 DVDの中で、五郎が綴る言葉の中に、「勝手に生きろ」という一節があります。
 なんてすてきだろうと思います。この言葉は全身全霊の信頼がなければ発することのできない言葉だと思います。
「おれはお前らを信じている。俺は俺の生きたいように生きてきた。数え切れないしあわせをいただいた。
今度はお前らがしあわせを掴む番だ。それには、それには謙虚につつましく生きろ・・・それがいい。」
 今、まさに今、そんな気持ちで我が子に接することのできる「一つの屋根」・・・。
 私は時折現実を視野に入れざるを得ない表現を子どもたちにすることがあります。
高校受験であったり、定期テストであったり・・・。
そのたびに何かすっきりしない、悶々とした気持ちを味わいます。
それがなんだかはっきりせぬままその日が終わります。
きっと、五郎さんが言っているこの言葉を裏切るような表現になっているのかなと、今思っています。
 その時を精一杯に生ききっていればいい。
結果はどうであれ、その精一杯に向かっていたその姿が尊いのだ。
 今年のキャンプで精一杯に向かっていた参加者たち・・・。
遊ぶことも精一杯、食べることも精一杯、そして勉強に向かうことも精一杯。
 もっとも尊いと感じるのは、キャンプ場の仕事ができたことです。
マットレスや毛布を受け取ります。それを湖畔のガードレールに干していきます。
数時間後、たっぷりとお日様からのごちそうをいただいたマットレス、毛布をトラックへと積んでいきます。
積み終わったあと、荷台のマットレスのてっぺんに「大」の字になって横になり空を見上げます。
トラックは走ります。景色がご褒美だよといいながら降りそそいできます。何という贅沢なプレゼントだろう・・・。
 働くって素晴らしい・・・。何の見返りも期待しない、欲もない、そんな心の中に大きな大きな景色というプレゼント・・・。
 五郎さん家族が北海道で受け取ってきたものを感じました。
 生きるってこういうものなのかな・・・。
つかの間の夢のような時間は終わりを告げ、また都会の中に埋もれながらの生活が始まります。
どこを見ても競争だらけ・・・。他人だらけ・・・。人と人がすれ違っても赤の他人・・・。
 このちっぽけな教室の中だけは、助け合う人々で賑わっている・・・。
子どもたちの明るい笑顔であふれている。
 そんな光景が当たり前になったらいいなと思います。
そんな気持ちを抱かせてくれたのも、キャンプ場での当たり前なお手伝い・・・。
団体さんが帰ったあと、静まりかえったキャンプ場をきれいにしていく・・・。
トイレからの鼻をつくアンモニア臭を追い出す。危険はないかなと一つ一つのバンガローを点検する。
このあとやってくるお客さんたちにすてきな想い出を作っていただくために・・・。
 キャンプ場で楽しそうに生活する家族の姿が目に浮かびます。家族さん、ありがとう。





第309号
「職種」
 興味深い記事が、ここ最近目にとまります。
お子さんがこの先どのような職業に就くのか、不安視なさっている保護者の方は多いと思います。
 野村総合研究所の試算では、10~20年後には、今の日本の労働人口の約半分が、人工知能やロボットに変わるとしています。
大事件です。単純に考えれば、就労者の半分が失業してしまうということです。
それまでに、その時代に合った職業に就けるよう子どもたちは学んで行かなければならないということです。
 国立情報学研究所教授の新井紀子氏は、「東ロボくん」という人工知能を育てているそうで、
「ロボットは東大に入れるか」というチャレンジをなさっているそうです。現在は、上位2割にくい込んでいるそうです。
もっともそれには現在行われている入試内容が使われているそうです。
 文科省は、PCでもできてしまう現在の入試内容を見直すべく、
2020年度から「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)を準備中です。
内容は、思考力・判断力・表現力を中心にし、記述式を導入するそうです。
そうすれば、いかに東ロボくんでも、そう簡単には解けないそうです。
それと平行して恐ろしいことが予測できるのだそうです。
現行の入試制度で準備中の受験生たちは、ことごとく「0点」をとる者が発生するだろうということです。
 東ロボくんを育てるための方法としては、今までの入試で使われた問題を大量にインプット、
そのデータから割り出された予想をもとに解答するのだそうで、
当然、資金力に富んだ大手進学塾なども各校の過去問を研究し、予想問題を算出、
機械的に答えられるよう訓練することで、問題に対処しているかもしれません。
だとすると、肝心要の、真の読解力は身についているのか不安になります。
そこで、新井さんは、次の2問を中・高生約1000人を対象に行ったそうです。
問い(1)アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
      セルロースは(     )と形が違う   
A デンプン    B アミラーゼ   C グルコース   D 酵素     (高校生物基礎)
 
問い(2)仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。
     オセアニアに広がっているのは(     )である。
     A ヒンドゥー教   B キリスト教   C イスラム教   D 仏教    (中学校社会)

問い(1)については、高校生正解率33%、中学生9%、(2)では、高校生81%、中学生53%だったそうです。
正解は(1)がA、(2)がBです。
新井さんは断言しています。「多くの生徒が、文頭やキーワードの近くにある言葉を選んでいます。実はこれは意味
を理解しないで問題を解く人工知能が陥りやすい読み方なんです。」
つまり塾などで行われている「点を取るためだけの勉強」は、東ロボくんでも行っていること、であれば、この先
今まで通りのやり方で人生を生き抜いても、そこには人工知能がすでに『就職』しているわけで、『ひと』など働ける
場所などないことになります。新井さんは続けます。「塾(進学塾)に行けば点数は上がります。
でも、教科書が読めているかどうかは、塾(進学塾)に通っているかどうかと関係ないことが今回の調査でわかったんです。」
新井さんは最後に締めくくります。「英語教育の充実やプログラミング教育の導入を言うならば、まず日本語を何とか
すべきなのです。(中略)だから最低限、教科書を読めるようにしてから中学を卒業させなくちゃいけないんです。」
私はかねがね、「勉強は楽しむもの、自分のペースで取り組むもの、他を意識しない。」その他にも結構ブツブツ言っ
てきました。今回のこの記事は、改めて現在の成績主義がそうさせてしまったことから生まれ出たもの。
点さえとれればそれでいい、これはコンピューター「東ロボくん」でもできること。
これからは、コンピューターにはできないものこそ、生きていくための糧となるものといえそうです。
新井さんはこの記事の冒頭で今の職種で代替されないものを掲げています。窓口業務・介護・教育です。まだまだあ
ると思いますが、この3つに共通しているものは、すべて生身の「ひと」と接することです。
これだけは、コンピューターでも無理でしょう。なぜなら、目の前の人の表情から、その人の感情をすかさず感じ取れることはできないからです。
思いやりや優しさは、人の感情から湧き起こる大切なものです。
キャンプのしおり、裏表紙に書かれているひとこと・・・
「もしとなりにだれかいたら、そっとこころの手をにぎってあげてね」          「ひと」になろうね。





第308号
「grit」
 グリット・・・辞書からは、「根性」や「勇気」という意味が調べられます。
 ある日インターネット上で、ひとつの記事に目がとまりました。(TED・・・NHKでも時折やっているようです。)
 『成功のカギは、やり抜く力』題名からはそれほど関心もなかったのですが、文を読み進めてみると興味深いことが書かれていました。
「27才のとき、私は経営コンサルタントのとてもきつい仕事を辞めて、もっときつい仕事につきました。『教師です』」・・・
この教師ですという言葉に「なにっ!」っと、続きを読まざるを得なくなったわけです。
 教職がとてもきつい仕事だということをしっかり理解している方がいる。なぜ教師になったのかは不明です。
 この方は女性、27才で教師へ転職、教職在任中にある疑問に気づき大学院へ、そして心理学者になっています。
 成功へつながる共通したもの・・・才能・努力。これだけでは説明できないことが教員時代に多々あったわけです。
 教育の物差しによく使われるものとしてIQがあります。これが高くても成績は振るわない。これが低くてもしっかりと結果を出す。
そのちがいはどこにあるのか。それを研究するために、大学院へ進学、心理学者になったということです。そしてある結論が見えてきたわけです。
 成功を収める人たちに共通したもの・・・「grit」というわけです。
 先ほども記しましたが、gritは、根性とか勇気という意味で辞書には紹介されています。
しかしこれを和訳された方は、とても上手い表現で表しています。「やり抜く力」という表現です。
インターネット上でいろいろ調べていくうちに複数の方がこのスピーチを訳されているのですが、
ある方はグリットとそのまま使用、そして先ほどの方は「やり抜く力」と訳されています。
 そのスピーチの中から特に気になった文を抜粋します。

・私は確信しました。IQの数値に関係なく、生徒たちは誰でも皆、時間をかけて勉強に取り組みさえすれば、必ずできるようになることを。
・数年の教員生活を通して、私は1つの結論を見いだしました。
教育に必要なことは、心理学的な見地から、もっと子どもたちを理解してあげること、
もっと子どもたちがモチベーションを高めながら学べる環境をつくってあげることだ、と。
・やり抜く力は短距離競走ではなくマラソンを走るように生きることです。
・成功を収める人たちは、共通してある1つの性格を持っていることが明らかになったのです。
「やり抜く力」です。
・「やり抜く力」とは、物事に対する情熱であり、また何かの目的を達成するためにとてつもなく長い時間、
継続的に粘り強く努力することによって、物事を最後までやり遂げる力のことです。
・「やり抜く力」はスタミナを必要とします。1週間、1ヶ月といった短時間ではありません。数年間ずーっとです。
頑張って、頑張って努力し続ける、そうすることで、やがて夢や目標が現実のものとなります。
・たくさん失敗して、失敗から学んだことを次に生かして、何度でもやり直しましょう。
・言い換えれば、まずは私たち大人が見本となり、「やり抜く力」を持った人間にならなければなりません。
そうすれば私たちの子どもたちも、より「やり抜く力」を持った人間に育つのではないでしょうか。

 特に気になるのは最後の文です。私たち大人が子の前で堂々と失敗をやってのけること。それにめげない姿勢をとり
続けること。失敗を恐れずに積極的に挑戦し、失敗を重ね続ける・・・。
 ふだん我が子には失敗しないようにと「願」をかけ続ける方、失敗して格好わるい姿を見られまいと必死になる方。
 どちらも逆行した行動に見えます。
 相田みつをさんの詞が浮かんできました。その一節を紹介します。
     「負ける練習」(一部抜粋)
早くから勝つことを覚えるな
負けることをうんと学べ 恥をさらすことにうまくなれ
そして下積みや下働きの苦しみをたっぷり体験することだ
(中略)
そして
負け方や受身の ほんとうに身についた人間が
世の中の悲しみや苦しみに耐えて
ひと(他人)の胸の痛みを 心の底から理解できる
やさしい暖かい人間になれるんです。





第307号
「ひかり」
 最近、ある恋愛映画「天使の恋」に出会い、それにハマってしまいました。
35才の大学教師と、17才の不良女子高校生とのストーリーなのです。
簡単にあらすじを紹介しますと、大学講師は、不治の病で余命が2~3年と宣告されています。
そこに14才当時にレイプされた過去を持つ高校生が現れます。
彼女は、その経験から人に対しての信頼を全くなくし、不良化しています。そこへ大学講師との出会いがあり、こころに電気が走るのです。
講師は余命のことを思えば真剣になど交際ができるわけもなく、素っ気なく相手にしませんが、
彼女の明るさに徐々に心の紐がほどけていきます。
それからほんのひとときですが、2人はしあわせな時間を過ごします。
そして余命が尽きる頃、つまりラスト近くで男性がその子に言います。
「なんでそんなに真っ直ぐなんだ。」その返事が「あなたが私に光りをくれたんでしょ。」
 この言葉が妙にこころに残りました。そして時間の経過とともに見えてきました。
 そうかどんなに心がすさんでしまっていても、自分にとって大切な人が現れることで、人は変われるものなのだ。
 この作品はたしかに恋愛小説の映画化なのですが、人と人の係わり方からすれば、大切な人と大切な人との間の心の葛藤を描いたもの。
だとすれば、この関係を子どもと親に置き換えても良いのかなと思います。
 つまり、恋愛感情を迎える以前の子どもたちにとっての大切な人、家族です。
とくにお母さんの存在は大きいと思います。
 先ほどの少女は、好きな男性が現れたことで、自分で自分を変化させていきます。
信頼を100%にするために、自ら今までの行動を変化させていきます。
ここで大切なことは、自分の「素」を出しているところだと思いました。
相手の反応を伺いながら、こうしたら嫌われるかとか、こうしたら好かれるとか言うような「お伺い」がないことです。
自分の持っている「素」を最大限演出しています。男性は今までにない幸福感を覚え始め、笑顔を取り戻します。
そしてある願いが生まれます。「もう少し生きていたい。」・・・つまり生きようとする力が生まれます。
 この関係を「子と親」の関係に重ねると、何と理想の家族が生まれるのです。
 子と親は100%信頼で繋がっています。子は親に「素」で接します。
そんな我が子を見て、親は感謝の念が生じ、自然と親も我が子に「笑顔」で返します。
 ストーリーなので、「現実はそんな甘くはないわよ。」と言われれば、それでおしまいなのですが、
子は常に夢を抱きながら生活していると思います。日々学校であった現実を家庭へ持って帰ってきます。
それをしっかりと聞いてあげるのは家族の役目。それに対して信頼感100%の対処をしてあげるのも親の役目だと思います。
 娘さんが男性に対し理想としているのは「お父さん」
 息子さんが女性に対して理想としているのは「お母さん」
 「わたし、お父さんみたいな人と結婚したいな。」なんて言われたいですよね。
 さて、ここからが本題です。
 勉強が嫌いでやりたくないからやらない。テストではいつも無残な結果を持って帰ってくる。
当然親としては気にならないはずがありません。この場合、ある二つのケースが考えられます。
本当に勉強が嫌いなのでやらない。もうひとつが、点数が思わしくないことは重々承知の上で、やはり芳しくない。
前者は家族間の信頼度に問題ありです。しっかりと親子間の絆作成に勤しむ必要がありそうです。
男の子は結構多いようです。「かあちゃんうるさい!・・・」
後者です。悪いことはわかっていても、自分なりに努力はしようとしても、結果がついてこない。
ご両親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになります。精神的にも常に追い詰められた状態になります。いつも「どうしよう」ばかりです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)、過去に強い刺激があったことで、それが心に残ったままで、何かのきっかけでそのときの気持ちが現れてしまう。
そんな経験を持ったお子さんに多く見られがちだと感じています。学校であったり、家庭であったり・・・
小さなPTSDです。世間で一般的に言われるのが、事故の瞬間を見てしまったとか、大きな災害に出会ってしまったとか、
新聞に載るような事件で扱われることが多いのですが、私が取り上げたいのは、普段、本当にまじめに生活していながら、
学校からの「評価」が原因で、小さなトラウマが心に残り続けてしまった子どもたちです。
因子は様々です。突然今までになかった点が出て、それを親から叱責された。語彙の勘違いで、まったくテストができなかった。
例えば、「異なる」の意味を「同じ」と解釈してしまったり。
実際にいます。何が原因でこのような点に結びついたのか、一番わかっていないのが本人です。
「勉強ができない」という症状は、いずれにしても「評価」があることで発生します。
だれひとり「勉強ができない人になりたい」とは思っていません。
そのような状態に陥ってしまった子たちは、毎日がPTSD発症なのです。
教育とはその状態を取り去ってあげるものなのではないでしょうか。
学校とは子どもたちを、先ほどの女子高生が「素」を取り戻したように、「ひかり」を受ける場ではないでしょうか。
生きようとする子。笑顔が絶えない子。
「ひかり」を奪ってしまっているのは・・・。





第306号
「期待は効果?」
 オリンピックが近づいてくると、あちらこちらで「〇〇さんに期待したいですね。」などと、TV画面から聞こえてくることが多くなりました。
 お母さんたちにとって、家族の期待の星はなんといってもお子さんです。
小学校へ入学すると始まる評価。教科書の内容をしっかりと把握しているのか気になるところです。
それを確認するのがテスト結果です。まずは学校からの返却テストの上方にある数字・・・
そして目はバツの部分へと注がれます。「何、こんなやさしいところで間違えている。」少しですが出てくる心の汗・・・。
「どうしよう、このまま成績不振だったら・・・。」不安が全身に広がります。
 将来展望は悪い方向へと大きく舵を取っていきます。結構マルの部分に目が行かないようです。
そして、子どもたちが必ずやってしまう選択問題のくじ引き・・・。
それでも合っていればお母さんたちは目を走らせることはないようです。やはりバツの部分に目が行きがち・・・。
まぐれで合っていれば目は行きません。子どもたちはそれを知っています。結果必ずわからなくても選びます。
 さて、期待されたオリンピックの選手たち。多くの支えが彼らにはいます。
1人の選手にどれほどの方々が携わっているのでしょうか。心理的な面のケア専門の方もいるはずです。
大きな期待を受けながらも平常心を保ち、普段練習で見せている100%の力を本番で発揮できるよう支えてくれているはずです。
 ではお子さんたちは・・・。心のケアで最も協力しなければならない方がお母さんです。
まさか、専属の臨床心理士をお付けになっている方はいないでしょう。
テストで実力を100%発揮できるよう、心のケアをしっかり受けているお子さん・・・。まさかですよね。
 子どもたちの心はとても弱くナイーブなものです。当たり前です。
成長の過程で徐々に心もタフになり大人へと成長していくわけですから・・・。
成人までの道のりの中で出会う失敗の数々、それをひとつずつ乗り越えながら大人へと成長します。
謝ることを覚え、反省することを覚え、社会で必要とされる「ひと」へと変化していきます。
その過程の中で大きな支えとなるのがお母さんです。
つまり子がミスをするたびに、身近な存在の臨床心理士が必要になります。それがお母さんです。
 ここに通うAちゃんはお母さんからある一言を何度も言われます。
「あなたは私の子なんだから、そんなに頭なんか良くないのよ。」その一言がどれだけこころに優しく降り注ぐことか。
Aちゃんは中学を卒業し、高校へ行ってからも通ってきてくれています。
そして、定期テストが近づくと「高校生ランチ」(丸1日マイペースで机に向かう勉強会)に自らの判断で参加します。
けっしてお母さんから「行きなさい」とは言われません。
高校へ特待生として進学したプレッシャーもあるのかもしれませんが、そんなあたたかい言葉を投げかけてくれるお母さんへの感謝もあるのでしょう。
しっかりと自立のトレーニングができているようです。
 3月、加盟している連盟の集会があり、講師としてオリンピック2大会連続金メダリスト谷本歩実さんの講演がありました。
初めてのオリンピック、そこでの決勝、コーチの古賀さんから一言・・・「女優になれ」・・・
この一言で平常心を持つことができたとおっしゃっていました。
 私たちには想像のつかないプレッシャーを持つのは当たり前、大死一番、しっかりと足が地に着いた瞬間を覚えたそうです。
つまり心が安心感で満たされる瞬間です。
 子にとっての大切なコーチはお母さんです。学校でのテストは繰り返されます。
そのテストのたびに、愚痴で飾られる子・・・子のこころをご想像ください。
 テストに挑む子、お母さんから投げかけられた大切な一言を胸に、安心感に包まれながら机に向かいます。
わからないところが出てきました。「おかあさん、ごめんね。」子は、母への想いから小さくつぶやきます。
 そしてテストが返却されます。「おやおや、やっぱりあんたはお母さんの子だね。
おんなじ間違いをやった覚えがあるよ。」子は思います。「おかあさん、今度は同じ間違いしないようにしっかりがんばるからね。」
 母と子は強い絆で結ばれています。
 「おかあさんは、あなたに期待はしているわよ。
でもねそれは成績という数字で飾られるものじゃないのよ。
あなたが毎日見せてくれるその笑顔が、ずっとずっと私の前にあることなの。
そしてやがてやってくる私の天国への旅立ちの瞬間、目の前で同じように笑顔を見せて欲しいのよ。」
 「おかあさん、わたし、おかあさんみたいなお母さんになってみせる。ありがとう。」
 そんな心根を持ったお子さんに悪いことなどできるはずがありません。
きっと、しっかり宿題やるし、しっかり朝、自分で起きるし、自分のことは自分でやろうと努めるでしょう。
 新学期、教室の風景をご覧になる方がいらっしゃいます。
私はそこで声を大にして言えること、
「勉強は苦手っ子さんたちばかりですけど、人柄は100点の子たちばかりです。それだけは自慢できるんです。」
 みんな、ありがとう。





第305号
「叱られたくないから」
 よく子どもたちが悪いことをしたときに、「〇〇ちゃんがいけないんだよ。」と、他人に事の責任を押しつけることがあります。
もちろん叱られたくないからです。
 子どもの中にある一つの判断基準、叱られるからやらない、叱られなければやる・・・。
 もちろん物事の判断基準がまだよく分からない年齢での「叱る」は、一つのしつけの意味があるように思います。
道に落ちているものを拾って口に入れてはいけない。道路へ急に飛び出してはいけない。
このようなことは、説明しても理解できない年齢で起こりがちなので、ガツンと叱ると条件反射が効いてやらなくなるかもしれません。
これ、ペットにも効き目がありそうです。
やがて年月が経ち小学校、同じようにガツンと続けていると、先ほどの叱られなければ良い、叱られるからやらないという判断が常態化してきます。
その後、その心理は「いじめ」などに形を変化させたりもします。いじめは必ず叱られない環境を確認してから起こります。
 テストでも同じこと・・・悪い点を取れば叱られるから、1点でもいいから良い点を取りたい。
だからカンニングをしたい。わからなくても適当に書き込む・・・。カンニングはバレなければ叱られません。
わからないのに適当に書き込むことも全くといってよいほどバレません。本来わからなければ書き込めません。
しかしこれをお読みになっているお母さんやお父さんにも覚えはあるはず・・・わからなくても書き込んでいたはずです。
 入試でも同じこと。わからなくても記号で答えるものは必ず記入しています。
まぐれ当たりがある以上記入します。まじめに取り組んできた子どもたちにとっては複雑な心境でしょう。
 叱られるからやらない。叱られなければやる。という判断はかなり危険なものだと思います。
この環境が当たり前で成長した子どもたちは、物事の判断基準を常に他人を意識したところへ置くことになります。
他人がいなければすべてが自由になります。つまり叱る人がいませんので何でもやり放題・・・。
人の行動はこれではっきりとしてきます。先ほどのいじめが典型的なものになります。
ところが、勉強になるとどうでしょう。悪い点数だと叱られる、良い点数なら叱られない。
それどころか良い点数はホクホクの笑みで褒められるのかもしれません。
やはり他人を意識したところに判断基準を置くと、本来の「学び」からほど遠い感情を抱いてしまいます。
常に結果を意識する生活・・・。結果・・・。
子どもたちの中で、あまりにも結果を気にしすぎて真っ白になってしまう子がいます。
あがり症・緊張症とでもいうのでしょうか。
この症状は高所恐怖症や、閉所恐怖症など、その場の環境の変化によって、精神的に動揺を起こしてしまうもの・・・。
ゴキブリが出てきただけで、「キャー」・・・失神寸前になってしまうようなものです。
このように、他人のせいにするのではなく、自己の責任だとまじめに捕らえてしまう子は、結果を大きく捕らえがちになるようです。
当然結果を最大のテーマにしているわけですから、1点たりともミスはできません。が、過去の自分がよみがえります。
つまり、悪い点を取って親から聞きたくない言葉を浴びせられたあの思い出です。
または、心ない級友から浴びせられたあの言葉です。ゴキブリ登場と同じ心境です。
過去にこだわるあまりに先へ進めない状態です。同じことが繰り返されるのでは・・・・。
勉強に対して、もっと自由になれたらいいなとつくづく感じます。
ここに通う子の中に、小学生でありながらすでに数学や英語に取り組んでいる子がいます。
その取り組む姿が実に理想的なのです。他を意識しない。結果を意識しない。我が道を淡々と歩む・・・。
わからないところがあればすかさず質問をする。真の学びを楽しんでいます。
もし過去にこころない言葉を口にされたご経験がおありでしたら、そこは素直にお子さんに謝罪されるのが良いかもしれません。
結構お子さんは過去の「事件」をはっきりと記憶しているものです。
何が良くて何が悪いかは、自身が決めるもの。
その判断基準を持って結果を意識することなく、淡々と歩んでいただきたいものです。
学びの楽しさをただただ知っていただきたい。他人との比較は学びには必要はありません。
勉強を競争の一つ(順位)にしてしまうのも真の学びではありません。
お子さんが前向きに生きようとなさっている。その姿を見て目頭を熱くされる母、そして父。
至福の感情がこみ上げてくるのではないでしょうか。
結果よりも今、今を精一杯に生ききっている姿が最も尊い姿だと思います。
過去の「ねがいましては」で触れさせていただいたことがありますが、ある子どもが父に褒められたいがあまりに猛烈に勉強に打ち込みました。
その結果これだったら褒められるに違いないと思う成績を収め、そのことを父に報告しました。
そして父から出た一言・・・「本気だったのか」・・・少年はハッと我に返ります。父だけを意識した自分がいた。
なんて小さな自分なのだろう。自身の精一杯を考えず、ただ「褒められたい」だけの小さな自分を恥じたそうです。
その少年は現在立派な社会的指導者になっているとのことです。なあみんな、自分に本気になろうね。ありがとう。





第304号
「こころをつなご」
 ある日のテレビ番組で、自殺未遂をする女性を取り上げていました。
鬱病にかかり、処方された薬を数十錠一気に飲み、気がもうろうとしている状態で病院に運ばれたそうです。
数日後、回復した女性に病院側が実家へ戻るよう促すと、女性はそれを拒否、
仕方なくそれまで勤めていた飲食店の店長さんに迎えに来るよう頼むと、快諾してくれた。
 普通であれば、親元へ戻ることが自然なのにと思いながら聞いていると、
その女性は幼少の時から親の虐待にあっており、親に対し良い思い出が残っておらず、
未だにその思い出がよみがえり精神的に不安定になってしまうとのこと。
 どこにも信用できる人などいない。ひとり・・・。この寂しさが彼女を自殺願望へと導いてしまう現実。
 親と子の間にあるべきもの・・・『信頼』。その糸がプツッと切れてしまった瞬間、子の心には大きな恐怖が宿るようになります。
冷たい雨の中、体を震わせながらうずくまっている子猫のような状態になります。
子猫は寂しさのあまり、声を上げます。「ニャー、ニャー。」しかし、人の子はそれをも許されません。
声を上げようものなら即座に虐待が待っています。行き場所を失ってしまった子。
 虐待の場合は、目に見える跡が残るので発見がしやすいのかもしれません。
しかし、日々続く親の期待から生まれる発言は傷を心に残すものの、傍目にはわからないことが多いと思います。
「今度成績が下がったら、今まで続けていたことをやめさせるぞ。」
「今度成績が下がったら、お小遣いは中止だぞ。」いくらでも脅迫は見つかります。
脅すことで、何が何でも勉強をさせようとする魂胆なのはわかりますが、子の心は逃げ場を失ったネズミのように、じっとうずくまるしか方法がありません。
仕方なく向かう机・・・。勉強をしたとしても、成績が下がったあとのことが想像されて仕方がありません。
ただ目を運ぶだけの勉強。何も頭には残りません。「どうしよう、どうしよう、どうしよう。」
1位がいれば、必ず最下位がいます。では1位は最高に幸せで、最下位は不幸のどん底なのでしょうか。
思い出されるのが、『絵本』(KYOWA HOMEPAGE)、
かっちんというカタツムリの主人公がいます。
カタツムリは足が遅いので運動会では必ずビリ、でもその家庭はとても幸せそうです。
家族が皆、助け合わないと十分な生活ができないからです。誰もが皆やることが遅いからです。
お母さんがかっちんへ言います。「かっちん、あなたはカタツムリの子なのよ、あなたはあなたらしく生きなさい。」
温かい想いが、かっちんへと注がれます。
1位をとっている子は、お母さんから「1位がとれたといって安心はしないこと、あなたのお父さんは最後まで1位をとり続けたのよ。」
これ脅迫の一種、「だから、次回1位から転落しようものなら容赦しないわよ。」と言っているようなものです。
1位を取った子は気が気ではありません。
かっちんの家庭では、成績の「せ」の字も普段の生活の中で出ることはありません。
毎日がとても和やかで明るい家庭です。1位をとった子の家庭では、いつもピリピリとした空気が漂っています。
家族の会話はほとんどありません。
家族の中に『成績』をどこまで存在させるのか・・・。されど『成績』と、お考えの保護者の方が多いのではないでしょうか。
世の中が豊かになりすぎてしまったが故の現象ではないでしょうか。
人は欲の塊。欲を持つことは悪いことではないにしろ、学校の中に『成績』がある以上、
子への期待(欲)は、持つのが当たり前なのかもしれませんが、それ以前に健康でいることへの感謝がどこかへ吹き飛び、
日々当たり前のように食事に向かえることへの感謝も吹き飛び、一つ屋根の下で就寝につけることへの感謝も吹き飛び、
何よりもまして、家族という出会いを奇跡的に向かえることができたことへの感謝も吹き飛んでしまっているような気がいたします。
たわいのない「おはよう」から始まり、「お休みなさい」と言って1日が終わることへの幸せをかみしめることが必要なのかもしれません。
はじめにご紹介した女性は21才だそうです。高校中退で東京へ、
職を転々とし、孤独の極致へ達し自殺未遂。薬を大量にのみ、搬送されるのはほとんどが女性だそうです。
G7(先進7ヶ国)の中でも、若者の自殺率が最も高いのは日本、アメリカの2倍だそうです。
専門家の弁では、『若年層の精神的な弱さが目立っています。
他国のように、ストレスの対処法を教育で教わっていないからではないでしょうか。
中高年の自殺率は今後も下がっていくと思われますが、若年層は増加傾向にあります。
また、この数値(自殺率)には自殺未遂者が含まれていません。
自損事故として救急搬送されるケースは女性に多いのですが、若年層は未遂も含めると相当の数になると思われます。』とのこと。
ストレスの対処法とありますが、
失敗や挫折は悪いことだという先入観を幼少時から抱き続ける子どもたちにとって成績が落ちたということは
犯罪のように感じてしまうのでしょうか。(ちがうよ)
間違えるのは当たり前、順位をつけてやらせようとするのは、大人たちの考えたこと。
わからないから、間違えてしまうから、学ぼうとして日々学校へ通っているのです。
今の君が生き生きしていれば、それが100点。みんな、自分歩きをしようね。ありがとう。





第303号
「自立練習の変化」
 ある日のインターネットでの記事に目がとまりました。見出しがドキッとするものだったからです。
『電話が怖くて退職…今どきの新人は「弱すぎ」?』というものです。
 常々、ここ最近の子ども達のネガティブが気になっていたものですから、余計に響いたしだいです。
読み続けてみると、なるほどというものでした。
 ここ数十年のうちに、電話に対する家族のあり方が激変していることがその要因になっているとのこと。
確かに私の幼少の頃は、電話と言えば家電話。家中に響く電話の音、誰への電話なのかは出てみないとわからないもの。
で、近くにいる者か、又は出たい者が出る。「はい、もしもし、〇〇でございます。」などと、掛けてきた相手に失礼の無いように出る。
子どもが出ても、その応対が不自然であったり、失礼極まりないものであったりすると、すかさず家長よりきつい指導、
「もっと丁寧な出方をしなさい。」とか、「もっときれいな言葉遣いをしなさい。」
などと、電話については師匠と弟子のような関係が親と子の間にもあったようです。
 実はこれがれっきとした、社会へ旅立つ上での大切な訓練になっていたのです。
 そして今、誰もが自分専用の電話機を手にし、かかってこようものなら、画面にしっかりと名前は出るし、
そのたびごとに出る際の言葉選びができるわけで、かなり緊張をせずに済むことができます。
子どもたちにとっては、それが電話との触れあいのスタートといっても過言ではない時代になっています。
 そのような電話とのつきあいに慣れ親しんでしまった若者が、いざ就職、
とにかくかかってきた電話にはすぐに出なさいといった会社ならではの当たり前なスタイルは通用しなくなりつつあることを、
上司の方々は知っていなければならないと書いてありました。そのための細やかなアプローチがあります。
1.「ちゃんと見てて」と言って部下の前で作業をする。
2.その後で、「何か質問があるか」問いかける。
3.質問がなければやらせてみる。
4.ところが、きちんとできない。
 そこですかさず、「わからないのなら、なぜさっき質問しなかったのか」と相手を追い詰めるのはマズイ、と書いてありました。
 「仕事は見て覚えろ」「技は教わるのではなく盗め」などと、慣用句にでもなりそうな言葉がありますが、
どうやら昨今は、それではいけない世の中になりつつあるようです。
 核家族化が進み、『躾』という家族間にあって当たり前のものが徐々に少なくなりつつある今、
私たちは不安を益々増幅させるばかりになっています。
 あいさつは誰よりも先にせよ。玄関では必ず靴をそろえよ。
常に全体像をとらえ、傍にいる方が困っているようであれば、手を差し伸べよ。
などなど、数え切れないほどの周りとの接し方を、私たちは当たり前のように、家族や家族と言ってもおかしくない、
この上ない愛情をかけてくださる方々から教わってきました。
 そこから育つ大切なもの・・・「気くばり」
 日本的な、おもてなしの原点である「気くばり」は、そんなところから育っているのかもしれないと思っています。
 あまりにも便利になりすぎてしまった豊かさは、ひょっとしたら人のこころを少しずつ劣化させているのかもしれません。
 お願いだから勉強漬けだけの少年期にならずに、さまざまな方々との出会い、そして触れ合いから、
多くの礼節を身につけていただきたいものです。
 少なくとも、電話に出るのが怖いから会社をすぐ辞めるといったことだけは避けたいものです。
何のためのあの勉強だったのでしょう。と、ご家族は思ってしまうかもしれません。
ご家族の多くの方々は、小学校時代より成績優秀、それなりの高校へ進学、有名大学合格卒業、
一流企業就職、という構図を描かれています。(ちょっと皮肉たっぷり)
 電話が原因で即会社を辞めた、などということでは、ご家族は嘆いても収まりがつきません。
「もっと、精神的にタフな子に育てておけばよかった」ということになるのでしょうか。
 で、今一度原点に戻ってお考えください。成績成績一点張りで、子育てを考えてきたのはどこのどなた様だったのか。
その結果、電話が原因で早速会社を辞める羽目になってしまったお子さんに育て上げたのは、まぎれもなく誰なのか。
 「~しなさい」ばかりで育ってきた子どもたちは、自分の考えで生きようとする力が希薄になっています。
誰かに命令されないと生きていけないような心根になっているかもしれません。
 失敗を恐れず、我武者羅に前進あるのみ。
失敗したらそれを繰り返さないようにするにはどうすべきか、自身で考える生き方をしよう。
その手法で日本一になったチームがあります。プロ野球のソフトバンクホークスです。
アナウンサーが「どのように、指示なさったのですか。という質問に、工藤監督は
「なにもしません。自分たちで考えようと常々言っています。」
それを聞いて、やはりそうだったか。と、私は深くうなずきました。
さて、子どもたち、指示や命令を待っているようでは、一人前にはなれませんね。失敗大歓迎、自分自身で歩きましょう。





第302号
「いろんな道」
 漫画を世界的な文化へと昇華させた手塚治虫さんが、後輩漫画家たちに繰り返し言っていた口癖が
「漫画家を目指すんだったら、漫画で勉強しなさんな」だったそうです。
 「その道を究めるんだったら、その道だけじゃない、いろんな道を知りなさい。」といったところなのでしょうか。
 「漫画を書きたかったら、その中には様々な人生ドラマが描かれるはずだ、だから外へ出ていろんな方々の日々の暮らしを覗きなさい。
感動にあふれた方々に一人でも多く出会いなさい。」と、言っているようです。
 私たちは日々多くの成功者のニュースに出会っています。スポーツがその中心といったところでしょうか。
勝者の記事が一面を飾り、見るものに感動や目標、夢を与えてくれます。
それを見、少年少女たちは、「僕も私もあのようになりたい」と思うのは当然だと思います。
 ただ、そこに少々気を配らなければならないものが待ち受けています。
彼らが見ているのは勝者として成功した姿を見ているわけで、数多くのチャレンジャーの中の頂点を見ているわけであり、
その裾野に広がる数えきれないほどの敗者の姿を見ていないということです。
どのような練習を毎日積み重ねているのか、頂点に立つまでにどれだけの負けを味わっているのか。
そこまで感じ取って地道に練習に励んでいる子どもたちは少ないかもしれません。
 手塚さんが成功なさったから、成功者の近くで学びたいと思うのは当たり前かもしれません。
しかし、それでは成功後の姿ばかりを見つめるだけで、その道の神髄まで見極めたとは言えません。
 成功者に欠かせないもの・・・私は『土台』であると思っています。
土を何度も踏み重ね、これでもかこれでもかと踏み重ね、痛めつけながら揺るぎのない土台を作ります。
その土の踏みつけ時に感じる『痛み』こそ土台の中の土台。
 スポーツをなさる方々の完成された肉体は、見るだけで想像ができます。
 ではその道、学びの世界で土台作りをなさった方々ではどうでしょうか。一目ではわからないと思います。
多くの学びを土台に積み重ね、重ねると同時に多くの痛みを伴いまた積み重ねる・・・。
その結果、人々にとって尊敬の念を感じるものを発見したり、経験したり・・・。
それを持って様々な形の表現法で人々の心を打つ・・・。
 その頂点にあるものが、家族であればご両親だと思います。子にとって親は、自身のかけがえのないヒーローです。
親の日々の積み重ねを毎日のように見ている我が子・・・。その生き様を見ながら子は歩んでまいります。
 見えてきたもの・・・我が子に〇〇しなさい〇〇しなさいと、毎日のように繰り返し命令調の言を浴びせていらっしゃる方がいらっしゃいますが、
ご両親の生き様を真剣に見つめてきたお子さんは、おそらく命令されることなく我が道を黙々と歩んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 さて、手塚さんのところに集まってくる漫画家の卵たち、手塚さんから「漫画で勉強しなさんな」と言われながら何を思ったでしょうか。
手塚さんを心から慕っているからこそ、近くに居たいと思うのは当然です。
しかし、当の手塚さんはその方々を遠ざけることを言ってのけます。
 ご両親のことを心から尊敬している我が子は、きっといつまでも尊敬できるひとのそばに居たいと思っているはずです。
あえてここで言わせていただけるのであれば、だからこそ、
「この家にいなさんな、この家ばかりで勉強しなさんな。」と、言ってあげるべきではないでしょうか。
 「おい、人として完成したかったら、この場ばかりに居続けちゃ駄目だよ、もっともっと他を見て歩かなきゃな。」
 勉強の世界も同じだと思います。勉強ができる人の近くに居れば勉強ができるようになるかもしれない。
勉強で高得点ばかりを収めている人のまねをすれば、きっと自分も勉強ができるに違いない・・・。
これすべて、全く逆の道を歩んでいるように思えます。
 勉強に苦しんで苦しんで苦しみぬいて這い上がってきた方は、とてつもない時間と労力を費やしているはずです。
その分、あっちへぶつかりこっちへぶつかりの痛みをたくさん抱えています。
つまり土台がしっかりとできあがっています。そんな方のそばに居れば、その方の人生のにおいが感じられるかもしれません。
 どのように考えても、楽して成績を上げようという考えは、危険な行為なのかなと考えざるを得ません。
ただただ曳かれたレールの上を黙って歩けばいいというような楽な生き方をしていると、足もとをすくわれそうです。
自分の生き方を他人が準備し、その上を黙って歩けば自然に成績が上がる・・・。
宿題だから仕方がないか・・・しかられるからな。
成績上げないと、また何言われるか・・・しょうがないやるか・・・。
人らしくない瞬間。脅迫と命令でできあがってしまったような勉強の世界です。
一方、ご両親の生き様を見ながら黙々と自身で道を設定し歩もうとするお子さん。
「きょうは一人で〇〇を旅してくるね。」などと、世の中探検をしたがるお子さん。
 きっとそんなお子さんの10年後、社会の中で絶対に必要な「ひと」として活躍しているかもしれません。
 あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、それでもしつこく「わかりません」
と言ってやってくる土台固めさんたちに毎日触れ合うことができることを、こころから感謝しています。ありがとう。





第301号
「一瞬」
 昨年11月、高倉 健さんが亡くなりました。私も「幸福の黄色いハンカチ」が好きで、DVDを買ってしまったくらいです。
謙虚で地味で、それでいて芯があり、自分らしく生きようとする。
ある日の新聞記事より、生前、公にしないことを条件に、各地の刑務所を慰問なさっていたそうです。
その中で健さんが受刑者の方々に贈られていた言葉が、「1日も早くあなたにとって大切な人の所にかえってあげてください。」
 「大切な人がいれば、またやり直すことができるんです。」と言うことになるのでしょうか。
 何かが狂って今の場所にいるだけで、真剣に更生を考えながら刑期を終えることで、また新しい人生を始めることができる。
それを信じて出所し、大切な人に笑顔で迎えられるよう日々を送る・・・。
現実、そうは簡単にいかないと思います。
しかし、人の想いを信じ日々を刻むことは、刑務所にいる方々だけでなく、
健常の日々を送っている私たちにも充分当てはめることのできる「しあわせ」の条件だと思います。
 さて、子どもたちは親の想いを信じ、日々を刻んでいるのでしょうか。
親の過剰な期待に苦しめられ、裏切らないようにと、日々を真剣に生きている子どもたちは多いと思います。
生まれてまだ人生経験の少ない子どもたちは、大切な人を極端に意識します。
嫌われないように、傷つけないように・・・。
それは物心ついた後、自分の意思が成長をし、感情を外へ出し始めたときに学習します。
自らの欲望が通らないとき地面に座り込んで動かなくなったり、いつまでも泣きじゃくってみたり、
親の想いとは裏腹の行為に走った際に起こります。親の激怒した表情はいつまでも心に残ります。
または親の悲しそうな表情が残ります。毎日現れる親の顔。「見捨てないでね。」「ごめんね。」
 子は心から反省し、懺悔の念に駆られ続けます。でも言えない一言・・・「ごめんなさい。」「だって、言った瞬間に泣きそうだもの。」
そんなところを見せたくないあまりに、なかなか言えない「ごめんなさい」・・・。
 子は、学校から帰るとき、1分でも1秒でも早く「大切な人の所へ帰りたい」のです。
 その記事の終盤にもう一つ、
「一生懸命生きていると『生きていて良かったと思える一瞬』を味わうことができる」と、高倉さんは語っていたそうです。
子どもたちは日々の生活の中で、生きていて良かったと思える瞬間を味わっているのでしょうか。
とくに中学校では、単調な授業に飽きてしまったこどもたちが繰り返す「居眠り」だったり、
わからなくても質問は一切しなかったり、自らこれを学びたいという気持ちが浮かばなかったり・・・。
生活のすべてに無関心になってしまった子どもたち。
一生懸命さを忘れてしまった子どもたちは、生きていて良かったという想いを受け取れないでいるのかもしれません。
 中学校での定期テスト、やがてやってくる入試、大人たちが作った跳び箱のようなものに、
無理矢理向かわされるもの・・・避けて通れば不登校。周りからは軽蔑の眼差しが注がれます。
そのように子どもは感じます。親も当然、世間様に向ける顔がない・・・自分の立場を気にしてしまいます。
(結構これが子どもたちには不満の材料)
 結果などどうでもいい、正面からぶつかってみよう。そのときの表情がまさに一生懸命に生きていること。
その表情に周りからは多くの拍手が起こります。(家族はこころで拍手をしています。)
「あいつ、何回転んだら気が済むんだ。」家族はささやき始めます。「やるもんだなー。」
「飛べた。」生きていて良かったと思える一瞬です。
今までにない自分になりたい。そう思いながら日々を送る子は多くいます。成長しようとしている瞬間です。
人に右を向けと言われたから右を向いた。走れと言われたから走った。それではロボット同然。
自分の意思であっちへぶつかり、こっちへぶつかり・・・。それが人生を旅すると言うこと。
我が子が失敗したときについつい出る親の言葉「今度、失敗したら・・・。」
それを聞き、子の呟き「あのー、失敗したことが不満なんでしょうか。
だとしたら、失敗しない方法で生きてみます。『何もしません。』だったら失敗はしないよ。」子は動きを止めます。
じっとしています。確かにミスはしない・・・。
子が美しく見える瞬間は、思いっきりの笑顔を浮かべている瞬間。
思いっきり悔しがって泣いている瞬間。思いっきり真剣な表情で立ち向かっている瞬間。
成功とか失敗とかはその後ろからついてくるやったことへのご褒美です。
ある子は今までに自分の意思で机に向かったことがありませんでした。
初めて2時間、しっかりと向かえました。
そのときの表情に拍手です。ある子は目的が見えなくなって歩みを止めてしまうことが多くありました。
でも、目的がはっきりした瞬間、自らの意思で力強く歩くようになりました。「乗り越えてやるぞ・・・。」
目の前の跳び箱が低く見え始めました。
この2人の心の中に共通しているもの・・・・大切な人に喜んでもらいたい。
生きていて良かったと、思える一瞬を共有したい。
どのように中身のある時間を過ごすか・・・この部分に最大の評価を置くべきだと思います。
それには、家に大切な人がいなければなりません。あなた方は私にとって大切な人たちです。ありがとう。





第300号
「高学歴なニート」
 ある日の新聞、10㎝四方くらいの記事が載っていました。
OECDが発表したものなのですが、日本の若年無業者(ニート)は、他国に比べて成績が良いという結果が出たとのことです。
その結果、OECDとしては、「学校から仕事へと円滑につなげる仕組み作りが必要である。」と、指摘しているそうです。
 そこからわかること、勉強(成績)第一主義の教育環境は、結果的に社会への順応を妨げてしまうことになる。
今の学校教育は、社会への橋渡しになるような子どもの育成からかけ離れている。
これは、小学校入学時から大学卒業までの長期にわたる人間形成のあり方に歪みが生じているかもしれないということになります。
 それとも今の社会そのものに大きな歪みが生じていることが、ニート発生の要因になっているのか? 疑問は尽きません。
 ただ、以前の【ねがいましては】でも紹介しましたが、
東京大学が1年生の学生を対象に、1年休学しながら様々な環境の中で社会体験をしてくるという仕組みを始めたことは、
このOECDの発表とは無縁とはいえないと思います。
 すでに、かなり以前から、大学側ではこれではいけないという危機感を感じていたと思われます。
 そのような一部の大学の動きの中にあって、小・中・高校の中では、あまり際だった変化は感じられません。
相変わらずの成績偏重は根強くあると思われます。
国家が定める教育の中では、一斉に大きな変化はなかなかできるものではないことも当然です。
国定教科書もそのひとつでしょう。相変わらずの就職=高学歴といった見方は、保護者の方々の間では当たり前なのかもしれません。
現に、「あそこのお子さん、東大合格なさったらしいわよ。」と聞けば、かなりの方が羨望のまなざしを浮かべると思います。
そのお子さんがどのようなコミュニケーションをなさる方なのかは想像されないでしょう。
きっと何もかも、ずば抜けているとお感じになってしまうはずです。礼節はしっかり身についているはずだ・・・。問題はここです。
 「ひと」・・・人は人と触れ合って初めて人になる。
 家族の会話が絶えない明るい家庭で成長するお子さん。家族に対する思いやりは、当然のように身につきます。
やがて学校生活では多くの友だちから慕われ、誰とでも笑顔で接することのできる、気配りのできる「ひと」へと成長します。
もちろん、学力の面でも目立ちはしませんが、そこそこの所にいるはずです。
それどころか、ご家族やお友だち、学校の先生方から温かい声援を戴きながら勉学に勤しみ、見事に希望大学へ合格するかもしれません。
当たり前です。多くの思いやりの中で育ったお子さんが、「勉強なんか嫌いだー」と言って乱れることは考えられないからです。
一方、目が覚めてから寝るまで、教育熱心なご両親にみっちり勉強指導されながら成長するお子さん。
常にご両親に対して「信頼」というひとつの課題と対話しながらの毎日です。
「僕は、親から信頼されているのだろうか。」「私は、親の期待に応えられているのだろうか。」
「今度、成績が悪かったら何いわれるか・・・。」不安な日々が続きます。
次第に人と接することが少なくなり、人から受ける想いを深く感じ取ることもせずに成長します。
当然ながら、自ら想いを他人に渡すことも知らない「ひと」へと成長します。やがて勝ち取った国立大学合格。
このような表現が非常に偏ったものであることは重々承知ですが、
人と接することの重要性が今の教育の中ではきわめて少ないのではないかと思います。
家を出、帰宅するまで、全く声を発することなく生活できてしまう場でもあるからです。
かといって教育の現場で指導者が強制的に発言をさせるようなことをしても、おそらくかたくなに拒んでしまうことは想像できます。
壁で閉ざされた部屋・・・学校。教員という大人と、子どもたちとの触れあい。
ちまたに飛び交う「不審者」という単語。先生という大人以外は不審者・・・。
これでは高学歴なニートが誕生してもおかしくありません。
学校という場所・・・助け合いの場所。家族という場所・・・助け合う場所。人と人が触れ合う場所・・・助け合う場所。
それが当たり前であるという環境作りが私たち大人の責務ではないでしょうか。
私の小学校時代、世間は交通戦争という語彙が誕生する凄まじい車社会の到来を迎えていました。
登校は集団登校。6年生が先頭に立ち、その後ろは1年生から順番に最後列は6年生といった一列縦隊編成での登校でした。
学校が近づくにつれ、あちらからもこちらからも登校の列が現れます。列は一本の麺のようになりながら、学校へと吸い込まれていきます。
1年生は6年生を羨望のまなざしで眺めます。6年生はそのまなざしに答えるべく、下級生たちに気配りをします。
「ほら、列からはなれないで・・・。」などと声をかけます。
ほんの一場面なのですが、人と人が支え合う瞬間です。その列を笑顔で迎えてくれるみどりのおばさん・・・。
僕たちの暮らす町はまんざらでもないぞ・・・。言葉では表現できなくても、子どもたちはそれぞれ安心したものを手にしていました。
人と接しなければいじめられることもない。人と接しなければ叱られることもない。
机に向かっていれば、親は何も言わない。それどころか暖かい眼差しを送ってくれる。でも、会話はない・・・。
さてみんな、今日も冗談混ざりで楽しく勉強しましょう。触れあいを楽しみましょう。ありがとね。





第299号
「垢」
 前々回号に続いて灰谷健次郎さんの『優しさとしての教育』より取り上げます。
Oさんからの手紙の中に『垢』という表現が出てきます。その部分です。
    
ある中学校に実習に行った人のクラスに、IQは高いのだけれど、つっぱっていてテストでは30てんぐらいと
   る男の子がいて、その子に見積もりをさせるとスラスラやってしまう、それを教生が「お前、頭いいなあ」という
   と「いやー俺バカだからわかんないんだ」と言った、というのです。
    私はそれをきいてIQが高いのにもったいない、と思ってしまいます。
 
これをお読みになって何かお感じになったでしょうか。いやっ、別に・・・当然ではないのかな・・・。
、思われる方は多いと思います。
Oさんは教育大に進学し、教育実習に参加し、子どもたちとのふれあいから自分が変化していくのを感じています。Oさんの手紙の続きです。

   それは、点数主義のエリートの垢(あか)ですね。人間の値うちはテストの点では決まらないと思うのに、とっさ
  に考えるのは、そういうたてまえとは逆のことです。その人(IQの高い中学生)はあのいやらしい優越感を持たずに
  すんでいるのです。それは私にはうらやましい。昨年の春には赤ん坊のようだった私が少しずつ成長してきました。
  やっと一人で立てるようになったかんじなのです。

 Oさんは、IQ値によって得てしまう優越感を、『いやらしい』と形容しています。
まさにそのとおりです。100点を取った、クラスで1位になった、学年順位が上がった、通信簿が上がった・・・。
そのすべては国家がもたらした教育制度の『垢』だと思います。
それになんの疑問も持たずに、そのままその結果に素直に一喜一憂してしまうのは紛れもない
『IQが高いのにもったいない』とお感じになった方々です。
私はこのOさんの手紙を読み返すたびに、身が引き締まる思いを感じます。
私自身も知らないうちに垢まみれになってしまっている・・・。初心を取り戻すことが出来ます。
生後20年あまりの方の体験が私を救ってくれます。Oさんはその気持ちを教育実習先の子どもたちからいただいています。
子どもたちは誰から何を教わったわけでなく、ただ自然体で学校生活を送っています。垢まみれになることなくです。
子どもたちは生を受け、自身の感じるままに学校生活を送ります。その中で生まれる彼らたちのモラルは、一人の学生を救っています。
Oさんは感謝の気持ちを送っています。

   子どもたちは、ありのままの醜い汚い私をうけいれてくれていたんです。私があんなに私のままでいられた場所
  が、他のどこにあったというのでしょう。

教育実習先で出会った担任の先生の影響も欠かせません。
その先生はOさんが授業していると、平気でうしろで居眠りをし、4時15分になれば、さっさと帰る。
授業の打ち合わせもしないような方です。しかし、こう言っています。
「例えば学級会は、子どもを訓練すればスムーズに行うことができるが、大切なのはそんなことではない、
だから俺は学級会の時口出しをしない。」
つまり精一杯に子どもたちが生きようとしているのだから、その生きようとするエネルギーを奪ってはいけない、
結果失敗に終わったとしても、そこに費やした情熱を評価してあげることだ・・・。そのように私は感じます。
この言を勉強に置き換えてみます。
「例えば勉強は、子どもを訓練すればスムーズに行うことができるが、大切なのはそんなことではない、
だから俺は勉強している時口出しはしない。」
子ども自身がこうしたらいいのかな、ああしたらいいのかなと、試行錯誤を重ねながら机に向かっている。
その瞳は輝いている。傍らで見ている母親は、その方法では失敗することが目に見えている。すかさず口出しをしてしまう。
大切なことを摘んでしまっているのはお母さんの一言かもしれません。
私も含め、垢まみれになってしまっているこころを子どもたちは癒やしてくれます。
Oさんは教育実習から生きる力をいただいています。その提供者は子どもたちです。
「俺、バカだから」そう言ってさっと交わしてしまう子どもたちが、この小さな空間から生まれるよう努力して参ります。
それにはもっともっと多くのプレゼントを子どもたちから吸収しなければなりません。
よろしくお願いしますよ、こどもたち・・・・。ありがとう。





第298号
「自然」
 今年のCAMPは日程が理想的に行かず、今までにない少人数のものになりました。
それでもこの4泊5日には思いもよらない目を細める光景がありました。
 学会での発表日程が、いつも行っているCAMPの日程と重なってしまうため、やむなく学会終了、即CAMPという過密スケジュールになってしまいました。
例年ですと、CAMP前日は説明会終了後、準備のための買い出しや用品の荷造りなど、スタッフさんたちが手伝ってくれる日になっていたのですが、それも叶わず・・・。
前日準備など全く予定もしていなかったのですが、私が留守の間にスタッフさんたちが機転を利かせ、いろいろと準備をしてくれました。
相当私が疲れているのだろうと思ったのか、出来上がった荷物を車の中へと収めてくれる大サービスもありました。これには感謝です。しかし出発当日朝、積み直しはしましたが・・・。
 そんなこんなで、スタッフさんたちの温かい気配りによって無事出発することができました。
 到着するや、とんでもない光景が・・・。
CAMP場の一番の力持ちであるオーナーの息子さんが松葉杖姿で歩いているではありませんか。
今年3月、CAMP場内の修理のため屋根に上っていたところ、足を滑らせ転落、落ちたところが運悪く石の上だったため、足首を複雑骨折されたとのこと。痛かったでしょう。全治約1年だそうです。
 ここ最近『働く』をテーマに行ってきた私たちのCAMPでしたが、今年は少人数、思うようなお手伝いはできないのかなと思いながら涼しい空気を堪能します。
 今年のスタッフさんたちは、男子高校生が2人、女子高校生が1人、目的は勉強なのだそうで、その前向きな姿が果たして見られるかどうか・・・。
残りは皆小学生、しかもすべて女の子。
 で、事件は2日目の夜起こりました。
 その日からやってきた団体さんたちがいます。
そのほとんどが小学生たちのようで、面倒は大学生と思われる方々。
大型バス1台でやってきましたので、およその人数はご想像いただけると思います。
すぐ隣のバンガローから約10のバンガローで生活するようです。夕食も終わり、やがて就寝の時間。
どの団体でもそうだと思いますが、念入りなスケジュールが組まれ、時間通りにそれは行われていきます。
9時半、その団体さんのバンガローは明かりが消え、静まっていきます。
そこへそっとやってきた団体さんたちのスタッフの方、そっとバンガローの玄関ドアの所で聞き耳を聞かせています。
私はその光景を見ながら寂しさを感じました。「スタッフさんたちは子どもたちを疑っている。」
 普段から、【ねがいましては】でもお話していますように、人と人の中には『信頼』が必要だと・・・。
 ドアの外でそっと立っている学生の方は、どう思いながら立っているのでしょう。「誰が起きているのかしっかり聞いていますからね。」
まるで盗聴しているかのようなその光景は、わたしにはどうしてもグレーな気持ちにさせてしまうものでした。
 と、そこへ登ってきました。松葉づえ姿の息子さんがCAMP場専用の共同トイレの掃除にやってきたのです。
男女合わせて20人が一度に用を足せることができるほどの大きなトイレです。
どんなに怪我をしていても、やらねばならないことはあります。すかさず私は声を上げました。
「ねえみんなでSさんのトイレ掃除を手伝ってあげなよ。」「はあーい。」パタパタパタパタ・・・・。
その足音はすべて小学生たちです。もちろんそばにいた高校生たちも参加します。
 我が家全員がトイレ掃除の始まりです。いやいややっているのではない、にぎやかな声がトイレから響いてきます。
 おそらく自宅ではほとんどやったことの無いトイレ掃除・・・。
 先ほどの団体さんたちの就寝の光景が左側で起こっていたのに対し、みんなでトイレ掃除をやっている光景が右側で起こっています。
 このコントラスト、是非お父さんやお母さん方にご覧いただきたかったのです。
 片方では、決まったことを守らせようとしている光景。
 片方では、皆が正しいと思ったことをこころから楽しんでいる光景。
 その中には人として必要な信頼が宿っています。何の不安もない心のつながりです。
子どもたちは、その行為が私の中で感動的な光景として映っていることなど微塵も感じてはいません。
つまり褒められようとしてとっている行動ではありません。困った人がいれば助けてあげる。当たり前なことを自然にやっているだけなのです。
 決まりを押し付け守らせようとする。今起こっている状況を自然体で受けとめ自然に行動する。
 今、学校で行われている生活は前者なのでしょうか、それとも後者。
集団生活を行ううえでどうしても必要なことは100%承知しているのですが、ルールを守らせようとすることの子どもたちへの影響を思うと、違和感を覚えます。
それからの小学生たちは、CAMP場のスタッフになり切りたいのか、道具の貸出場所へ陣取り、「いらっしゃいませ」などと声を上げていました。働きたいのですね。
 どんな小さな子でも、人の役に立ちたいと思うのはうれしいことのようです。そんな場が日常あったらいいなと感じました。ありがとね。



第297号
「何度でも」
 灰谷健次郎さんの本の中に、「優しさとしての教育」があります。
かなり以前に購入した本なのですが、出張などの折に持って行くことが多くあります。
文庫本であり、200ページほどのものなので携帯しやすいというのも理由のひとつなのですが、何より内容です。当たり前かもしれません。
何回読んでも発見があります。
よく、子に読書をさせよといいますが、その目的は何ですかと問われれば、「成績」であると言う方は多いのではないでしょうか。
子からすれば、「〇〇冊読んだよ」と、読んだ冊数を自慢するための読書であったり・・・。
 本を読むという行為の神髄は、やはり、出会いだと思います。いつも持ち歩きたい・・・。
 さて、優しさとしての教育の序盤に、灰谷さん宛のある女子大学生からの手紙があります。
教育実習から得たものを切々と書いていらっしゃいます。
その中の一文、『先生は子どものためを思って、いっしょうけんめいしていることが、実は子どもの気持ちを無視したり傷つけたりしていることが、本当はたくさんあるんじゃないか、と最近気がつきました。』
 この大学生は教育実習に行き、そこで出会った子どもたちに救われたと書いています。
『あの子たちといると私が、力をわけてもらえる。』と、書いています。
 子どもたちとの約1ヶ月の生活を通じ、それまでの自分が大きな力によって支えられた。
感謝の気持ちが強く伝わってきます。最後にこう記しています。
『子ども達に灰谷さんの本をたくさん読んでやります。子どもの詩もたくさん読んでやります。
そして思ったことをはきださせてあげたいのです。』
 この方は、教師になったら綴り方の時間をつくろうと考えました。綴り方、最近耳にしなくなった語彙です。
作文のことです。作文と言えば、嫌いな子どもたちが多くいます。
なぜって、こんな文章書いたら成績に響くかなと、不安を隣りあわせにして取り組む子が多くいるからです。
漢字も数多く使わなければならないし、常に、隣りあわせにお小言を言わんばかりにと、先生や親の顔が浮かんでいるのです。
特に上学年にいけばいくほど、その頻度は上がると思っています。
 教育実習が終わったばかりで少々感情が先走ってしまったのか、この手紙を書いた後、この方はこの手紙を出すことを躊躇なさっています。
しかし伝わってきます。子どもたちへの感謝の気持ちが・・・。
 先ほどの『先生は子どものためを思って、いっしょうけんめいしていることが、実は子どもの気持ちを無視したり傷つけたりしていることが、本当はたくさんあるんじゃないか。』
ですが、この先頭部分の『先生』を、『親』に変えてお読みいただきたいのです。
 ひとつでも、お心当たりのある方は、是非、この教育実習生の方の手紙をお読みいただきたいのです。
 作文とは、その子の心の中の色が見えてくるもの、ふだん言いたくてもいえないような心を、自由に表現できるもの。図画工作と似ているかもしれません。
絵などは、子どもの心の様子をストレートに映し出すものとして、よく心理学者の方がとる手法です。
その作文が「成績」という二文字によって、子の心を封じてしまっているような気がいたします。
もし成績がなかったら、子どもたちは自由奔放に、ありのままを表現できるのです。
できあがった作品をみんなで鑑賞し合い、今まで知ることのなかった友だちの優しさや、思いやりに出会えるかもしれません。
さらに友だち同士の中で、深い絆ができあがっていきます。もちろん先生も、子どもたちの作品から力をいただきます。
何より感動鳴り止まないのは、お父さんお母さんでしょう。我が子がここまで成長したのかと、感極まることは当然でしょう。
 親子間に、誰にも断ち切ることの出来ない強い絆が結ばれます。「成績」の二文字が小さく小さく見える瞬間でもあります。
「成績など気にしなくてもいいよ、お前が毎日を精一杯に生ききってくれることが、何よりもお父さんお母さんはうれしいのだよ。」
 家庭の中の先生は、紛れもなくお母さん。先ほどの大学生の一言、『思ったことをはきださせてあげたいのです。』
 子どもは望んでいます。学校であったことをすべて受け止めてほしい。良いとか悪いとかではなく、とにかく聞いてほしい、わかってほしい。
 また、学生はこう書いています。『全くわからない子を目の前にして授業を進めることにどんな意味があるのでしょう。
その子の自分は勉強が出来ないという劣等感を一緒に勉強していて感じます。何のために学校はあるのでしょう。』
 わからないのが当たり前だと思いながら毎日学校へ通う子。それでも笑顔は忘れない。下手な大人よりずっとずっと立派だと思います。
 今、取り組まなければならないこと・・・学ぶことの楽しさを伝えること。結果を気にせずに、黙々と取り組めるような学びを提供することです。それには・・・。
 この小さな学舎(まなびや)で行われている取り組みは、内容は学校の勉強です。
しかし、学校の勉強なのだと感じさせないような向かい方をしていただきたいと、こつこつ歩いております。
ある子には一題ずつ手書きの問題を、ある子には先の学年の勉強を・・・。大切なことは、『生きようとすること』です。ありがとね。



第296号
「メッセージ」
 詩人、吉野 弘さんの作品です。

奈々子に

赤い林檎(りんご)の頬をして 眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは そっくり  奈々子の頬にいってしまって ひところのお母さんの つややかな頬は少し青ざめた お父さんにも ちょっと 酸っぱい思いがふえた。

唐突だが 奈々子 お父さんは お前に 多くを期待しないだろう。
ひとが ほかからの期待に応えようとして どんなに 自分を駄目にしてしまうか お父さんは はっきり 知ってしまったから。

お父さんが お前にあげたいものは 健康と 自分を愛する心だ。

ひとが ひとでなくなるのは 自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき ひとは 他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう

自分があるとき 他人があり 世界がある。

お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた。 苦労は 今は お前にあげられない。

お前にあげたいものは 香りのよい健康と かちとるにむづかしく はぐくむにむづかしい 自分を愛する心だ。

                                        (本文をそのまま引用)

 私がこの作品で最もこころを打たれる一行が、『お父さんは お前に 多くを期待しないだろう』です。
心からご両親を尊敬している子どもであれば、なんとかその期待に応えるべく努力を重ねます。
しかし、相手は現実、結果がそのすべてを物語ってしまうかのように受け取られてしまいます。
自然とわき出る自分への嫌悪感。「自分はだめなんだ。」「自分なんていないほうがいいんだ。」「自分なんて大嫌いだ。」
まじめすぎるが故の自分への攻撃が始まります。『ひとが ひとでなくなるのは 自分を愛することをやめるときだ』
つまり、子が自分自身を愛することをやめてしまうことは、人でなくなること。その原因は、親の子への期待。
少なからず、親は子へ一抹の期待を描きます。
子はその期待をとても大きなものとして捉えてしまったとき、徐々に自分への攻撃を始めているのかもしれません。
自分を愛することの出来ない状態は、当然、他人を愛することなど出来ません。やがて、子の心は親から離れていきます。
押さえきれないほどの強い孤独感が子を包み始めます。やがてやってくる、真の孤独。
常に子は、ご両親に認められたい、ご両親から褒められたいと思っています。
それは愛情を求めている証拠です。その“褒められたい”を最も強く意識してしまうのが“成績”です。“しかられたくない”からやってくる自然な心理です。
『お父さんが お前にあげたいものは 健康と 自分を愛する心だ』
まさに今の教育が忘れてしまっているようなことのように聞こえてしまいます。
自分を愛する心、「今日も精一杯に生ききっているなー、家族はみんな元気だし、明るいし、お母さん、お父さん、ありがとう。これからもよろしくね。」
家族全員に広がる安心感。愛情をたっぷり吸った空気に満ちあふれている空間・・・家族。そんな空間で宿題に励む子・・・。
そんなお子さんに“成績”などという感情が湧くのでしょうか。成績がちっぽけに見えます。
この小さな空間(教室)が、子どもたちにとって、安心に包まれた空間であり続けることを、改めて心に刻ませていただきました。
それにはあなた方の協力が必要ですよ、笑顔をよろしくね。吉野さんありがとうございます。
お父様、お母様に、お願いがあります。ご自身のお子さんのお名前に変えて、この詩を読んであげてください。



第295号
「評価があれば」
 ある栗田のランチ講習のことです。夕方になり、そろそろ空腹感がやってきそうな時間になりました。
おやつタイムを気にし始める子がちらちら・・・。「おなかへった人?」手、手、手・・・。
というわけでホットケーキでも作りましょうか。と、なりました。
ランチは私が責任もって作っているのですが、おやつとなると「作れば?」と、生徒たちに任せることがしばしば。で、ある中1の子2人に任せることにしました。
「計量カップありますか?」ケーキのもとが入った袋の裏面を読みながら聞いてきます。普段私は料理にほとんど計量なるものは使っていません。
すべて感覚、フィーリングというものを使っています。それがまたかなりうまくいくものですから・・・。
どこからともなく探し出して渡します。「えーと。」ふくろに書かれるままに手が進みます。
やがて私の鼻に異常を感じます。(焦げ臭い・・・。)「あれっ、強火でやってるの・・・。」唖然・・・。
「何やってんの、強火で焼く人なんかいないよ。」「えー、だってわかんないんだもん。」
で、出来たのが黒いホットケーキ。その失敗で、つぎからは弱火で・・・。
「やったことないし、初めてだったんだもん。」私はこの一件で、感慨深い感情を抱きました。
普段の生活に必要なことが学べていない・・・。子どもたちは学校という現場で、何を学んでいるのだろう。単純に考えて、『生き方』だと思います。
広く考えれば、どのような道を歩むのか・・・。視点を狭くしていくと、生きるための具体的行動。
学校の先生方に言わせれば、それは家庭での学習なのでは・・・。という意見が大半でしょう。
しかし現代にあっては、「料理などは危険きわまりない、包丁など持たせるわけにいかない。
あなたは自室で勉強しなさい。」といった言がお母さん方からは飛び交うのかもしれません。
もし、ホットケーキを焼くことが学校の評価にあるとしたら・・・。変な考えかもしれませんが、私の脳裏に浮かびます。で、聞いてみました。
「じゃー、もし学校のテストにホットケーキ焼きがあったら、練習するかい。」「当たり前じゃないですか。」
唖然その2。
子どもたちは知らない間に、評価が自分の生き方の中に土台として入り込んでしまっている。
では、トイレ掃除の評価、部屋の整理整頓の評価、ぞうきんがけの評価、食事時のマナーの評価、挨拶の仕方の評価、言葉遣いの評価・・・。学校から渡される通知表に数十個にわたる評価が整然と並んでいたなら、彼らはその項目のみに集中しながら学校生活を送るのでしょうか。
私の中には、口をあいたままの自分が立っています。
ごくごく当たり前なこと。モラルはどこへ行ってしまったのでしょう。
文部科学省では、道徳科を平成30年度より実施するという計画を発表しました。
子どもたちは評価を気にすることで、建前上の道徳を吸収し、本来の思いやりや優しさを、心の底から身につけてくれるのでしょうか。
当たり前なことはどこへ行ってしまったのでしょうか。
子どもたちが学校で勉強することは、当たり前なことです。
わからないことは「わかりません」といって、質問するのが当たり前です。
わからないから学校へ行っているわけで、その日の学校での勉強が、前もってすべてわかっていたのなら、学校へ行く必要はありません。
給食という健康保持のための行為と、友だち間の親睦を深める時間としてあるようなものです。
大人たちは評価というものを使って、子どもたちに恐怖心を抱かせ、机に向かわせようとしているように感じてしまいます。家庭では、評価というものを使って、条件付きの勉強をさせようと躍起になります。
(成績が上がったら、スマホ買ってあげるわよ・・・)
その行為によって、子どもたちは「評価がないものはやらなくて良いのだ。」
という必然性を手にしてしまうと言っても過言ではないと思います。
常に何が良くて何が悪いのか、常に何をすることが当たり前なのかを、土台として身につけなければならないと思います。
子どもたちは、常に顔色を見ながら生活しています。
学校では、怖い先生と優しい先生で接し方が違うように、評価に値するものはやるし、値しないものはやらなくていいといった気持ちを抱いてしまいます。
では、評価をなくしたら・・・。評価のないところからスタートしたら・・・。常に「当たり前」を念頭に置きながら、身のふりを考えると思うのです。
評価であふれかえる教育の世界を作ってしまったのは、紛れもない大人たちです。評価がホットケーキを焼くことさえ出来なくしてしまったのです。・・・かも。
さて、みんな、勉強を楽しむ気持ちを育てようね。
「評価って何ですか。」って言葉の意味を初めて調べるくらいに、自由に学ぶって本当に楽しいよね。学年撤廃、評価撤廃、となりの人にニコッ! ありがとね。



第294号
「妨げるもの」
 3月初旬、『東大教養学部は、後期課程(3~4年)の今学期末の課題として提出されたある学生のリポートについて
「約75%がインターネットに公開されている文章の引き写しだった」とホームページ(HP)で10日公表した。』(記事より)
 私はこの記事を見て絶句しました。さらに詳しく調べてみると、現在学内の掲示板には3枚の処分に関する文書が貼られているそうです。
2枚はスマホなどを使用したカンニング、1枚は他人のレポートの不正取得。
 不正を働いた学生たちは、いったい何を目的にして東大に進学したのでしょう。あまりにも稚拙な行為に言葉が出てきません。
 勉強って何なのだろう。学ぶって何なのだろう。学びの頂点に位置すると思える東大生がこのような不始末を・・・。
 東大にあこがれて毎日のように必死に向かっている受験生たちの落胆ぶりが目に浮かびます。
 合格すればいい。ただそれだけの目的で向かってきたのなら、とても残念なことです。
東大という名誉を獲得すれば、それで事足りたということなのでしょうか。だとしたら、人生観についても稚拙そのものです。
 いつの間にか学びの原点をすっかり忘れてしまったのかもしれません。
 学びって何なのだろう。真の学びを就学時点より伝えていかなければ、このようなことは繰り返されてしまうかもしれません。
成績が上がった、下がった。これはテストのために覚えた、覚えなかった。という子どもたちのがんばりの度合いのことなのでしょうか。
考えることで点数に反映されるテストも確かにあるのでしょうが、中高生たちが取り組んでいるテスト勉強を見ていると、どれだけ覚えたかが問われる割合がかなり大きいと思います。
機械的に覚えていればそれで良いわけで、内容について詳しく把握していなくても、文脈等で「あっ、あれだ。」といった感じで、書けてしまうものもあると思います。
先月訪問した小学校でのことなのですが、児童たちが枯れ枝を拾い集めていました。
聞いてみたところ、この枝で七輪を使ってお餅を焼くのだそうです。これぞ真の学び、拍手!
どのくらいの枝が必要なのか、火力はどのくらいなのか、どのくらいのお餅を焼くことができるのか、焼き具合はどんな感じか・・・。
理科の実験プラス家庭科、算数も加味されて、歴史もちょっぴり・・・、もちろんその中に飛び交う言葉は立派な国語。児童たちの輝く瞳が想像できます。
すべての児童たちに共通するもの、前向きな気持ち・・・。担任の先生に拍手です。きっと良い思い出ができることでしょう。
で、「その小さな実験について作文を書きましょう。」なんて一言いえば、とたんに「えー、成績になるのー、だったらいやだな。」
と、とたんに気持ちはクールダウンです。楽しかったお餅焼きが・・・。
実際に作文やレポート作成をしたのかは、定かではありませんが、キャンプにでも行ったような子どもたちの表情を連想させていただきました。
中学生たちの日常で、提出物があります。学校指定の問題集を、指定されたページまで指定日までにやってくる。
さもないと、成績に大きく響く・・・。ある意味、脅迫です。全くわかっていなくても「わかりませんでした」と、空欄にできません。
「やらなかったじゃないか」と、受け取られてしまうからです。宿題ですね。
ですから、定期テストが近づいてくると、彼らは一目散に提出物の解答記入に勤しんでいます。私の中からは「あーあ。」ため息ばかり・・・。
「これが勉強なのか・・・これが学びなのか・・・。」
課題提出を楽しそうにやっている子どもがいたら見てみたい・・・。
学びってもっと自由で、もっと前向きで、もっときらきらしていて、わくわくさせてくれて、先へ先へ行きたくて、気がついたら人生の目標が見えてきたりして・・・。
そうしたら猛烈に向かいたくなって、気がついたら目的にふさわしい大学へ入っていた。そして社会へ羽ばたいていく・・・・。
そんな当たり前があったのなら、今回の東大での不正はなかったのかもしれません。
不正をした学生のこれまでの学びに関する変遷を見てみたいものです。
少なくとも自らの目的にまっすぐに向かっているという構図は想像できません。
幼い頃から多額の教育費をかけ、ご両親の熱心なアドバイスを受け(かなり皮肉っています)、のぼらされてきたのかもしれません。
子どもたちは学ぶことについて強烈な好奇心を持っています。
最近では、5年生が数学を始めました。現在、2年生の数学計算に入っています。その向かっている姿は真剣そのもの・・・。
向かう姿勢は100点です。
学びは自由だと思っています。
教科書があって、学年があって、範囲があって、どんどん出てはいけないような箱を作って閉じ込めているような気がいたします。
学年次にここまでは習得させなければならないといった、指導者側の義務感が、さらに子どもたちの気力を失わせているのかもしれません。
さらにご家族がそれを後押ししている・・・。「あんた、こんどまた成績下がったらどうなるか覚えてらっしゃい・・・。」だったり。
学びは自由、精一杯に向かっていればそれが100点。どんどん質問してください。それが100点。ありがとう。



第293号
「芯の強さ」
 10数年ぶりで、都内某所の小学校2校へボランティア授業に行ってまいりました。計7日間、3クラス。
校長先生で、その学校のムードが決まってしまうとよく言いますが、各教室のムードは、担任の先生で決まってしまうものなのかと、改めて感じさせていただきました。
そのひとつのクラスでは、女の先生が担任です。20代後半なのでしょうか、まだまだエネルギッシュな雰囲気が伝わってきます。
 毎日1時間ずつ4日間、教室内はきちっと整理整頓され、後方の壁には、子どもたちの笑顔の写真が貼ってあります。
「やはり子どもは笑顔が似合うな」と思いながら眺めさせていただきます。
その小学校は2クラスであったため、2限目と3限目の境目、行間休みには20分間、子どもたちとふれあう時間がありました。
そこで、折り紙の指導を子どもたちにしてもらいました。勲章という折り紙だそうで、児童が先生になるわけで、私は「先生、そのつぎはどうしますか・・・。」
などと、逆転の立場で教えていただきました。屈託のない表情で、「つぎはね、ここをこうして・・・・。」
 自慢げな表情は、ちょっとばかりいい気分の証拠・・・。立派に作品を仕上げることができました。
「私の小学校3年生のときにも、こんな感じだったのかな・・・。」物思いに駆られてしまいます。
 みんなが安心して、ここが居場所なんだよ、といった気持ちで毎日を過ごしているのだろうな、と、思ってしまいます。
 と、思ったら、突然、ある児童が「先生、廊下で4年生がけんかしてる、止めてください。」と、ヘルプコールです。
 あれっ、私はこの学校の関係者ではないのに・・・でも、でもね・・・。というわけで、廊下に出てみると、2人の男子児童がにらみ合っています。
ひとりは目に大粒の涙です。
「まあまあ、リラックスリラックス。」と、声をかけながらにらみ合っている片方の児童の肩に手をやって、もみもみ。
そしてもうひとりに・・・。と、そこへ担任の先生がやってきました。
 先ほどとはまったく正反対の雰囲気の中に飛び込んでしまいました。「どこの学校にもあるんだなー。」と、身が引き締まります。
 最終日、その女の先生のクラスの終わりに、一言しゃべらせていただきました。
「〇〇先生も、きっと小学生の頃、すてきな先生に出会えたことで、今、先生になっているのだと思います。」
と、言ったとたん、「いえ、私は全く逆なんです。小学校生活がこころからつまらなくて、これではいけないと強く感じたんです。
それで、今の職業に就いています。ねっ、みんな・・・。」先生はニコニコされています。
 なるほど、私は初めて逆の立場から先生業を目指された方に出会いました。
 私の中の当たり前な構図がサーッと白くなりました。あこがれが夢を育むことは、ごくごく当然なこと。
自らの経験を『させたくない経験』として、強い意志のもとに貫き通す力。これこそ『芯』のある生き方なのだなと、感心させられました。
「私は小学校の時、全く元気がありませんでした。成績もビリの方でした。でも、中学へ行ってから急上昇できました。それで今があります。」
担任の先生の生き生きした表情は、そのまま子どもたちの毎日の学校生活につながっているようです。
安心に包まれた表情は、学校での生活になくてはならないものです。学校へ行きたくてならない。学校が楽しい。学校でみんなといるときが一番幸せ・・・。
そんな場を先生はお作りになられているのかな。
 自分が元気のなかった経験をお持ちだから、元気のない子の気持ちが痛いほどわかる。
自分が勉強のできなかった思い出があるから、勉強で困っている子の気持ちが痛いほどわかる。
 子どもたちを救いたい・・・。その一念で今を生きている・・・。
 久しぶりにさわやかな方にお目にかかれたことを、私は暖かい思い出としてしまっておきたいと思います。
 私自身も、全く同じ思いで子どもたちと接していることに自信を深めたと同時に、これからも試行錯誤の毎日が続くのだなと襟を正す気持ちでいっぱいです。
 受験シーズンも終わりを告げようとしています。
目的を達成した子。達成できなかった子。様々な人生です。もっとも大切なことは、目的に向かってどれだけ前向きな自分があったのか。
それを反省してみることです。目標が自分のレベルより低く設定された人は、本当に前向きだったのでしょうか。
だめでもいい、がむしゃらに向かってみたい。その気持ちのままで最後まで歩ききった結果、だめだった。
前者後者、どちらが人として評価できるのでしょうか。
 ただ一度の人生、思いのままに生きてみる。思ったときが歩くとき。
だめだったら・・・どうしよう・・・など、失敗を恐れてしまう時間の使い方はもったいないです。青春ではありません。
 もし、成績という二文字に、勇猛果敢に挑むとしたなら、結果、思うようにならなかったとしたら、
まず、自分のこころが本当に前向きであったか、問い正してみてください。具体的に・・・。
「何もしてくれなかった。」「わかるような説明をしてくれなかった。」などと、他に責任を置くようでは、成長はできないと思います。
小さな勇気を持って、歩くこと。〇〇先生、目的のある人生って、すばらしいですよね。ありがとうございました。





第292号
「どっちが知りたい」
 ある日の授業なのですが、数学の問題を説明しているときに、答えが知りたいのか、その過程が知りたいのか。
その心理をふと思った時がありました。
その子が取り組むものは学校からの宿題、生徒たちすべてに配られる問題ノートです。
あるページからあるページまで、しっかりと答えを書き込んで提出するのだそうです。
 簡単に結論を出してしまえば、『答え優先』。書き込んであればよいわけですから、出題者は、その欄を見、やってあるなと目を移していきます。
当然、子どもたちは目の前のものが宿題である以上「やってあればよい」わけです。
 あまり良くない意味で、このような呼吸を「あうん」の息、とでも言うのでしょうか。
皮肉たっぷりで申し訳ありません。
そこで、真の学びとは何なのだろうと、数学の問題を見つめながら思いました。
「解く過程が大切だ」と思う学びが真の学びだ。このことは誰もがまぎれもなく「そうだ」と、賛成していただけるはずです。
「へー、こうなって、こうなって、こうなるから答えにたどり着くんだ。なるほどねー。」
このように過程をじっくりとかみしめるときこそが、勉強って楽しいものなのだという実感を受け取れるとき・・・。
しかし、対象物が宿題となると、「こんなふうに味わっていたのでは、宿題が終わらなくなってしまう。」
という感情が芽生えてきて、味わう間もなく、早く終わらせたいという気持ちが勝利していきます。
つまり勉強って味のあるものなのだなー、という大切な感情を受け取るチャンスをことごとく奪ってしまうことになります。
 そこで私の中に湧き上がってくるひとつの感情が、宿題って何なのだ。
 やはり漢字の宿題を行っている小学生がいます。
ささっと早いえんぴつ使いで見事に書き込んでいきます。
その光景を見ながら思います。「書いているだけなのかなー。」
その子からの一言、「書いて出さないと、次から書く量が増えてしまうんです。」
知らず知らずのうちにその子の中に宿ってしまうもの、「書けばいい・・・。」
 時々、子どもたちに言うことがあります。
「字って、目の前の人に伝えるためにあるんじゃないのかなー。なんか、この字見ていると、自分だけが読めればいいんだ、みたいな字に見えるよ。」
 確かに子どもたちの字に対する目線は、「テストで〇がもらえればいい。」
という字になっている子は多いと思うのです。
国語でも、算数でも、社会でも、テストが帰ってきたとき、
「あれっ、この字読んでくれていた。やったね!」なんて喜んでいる子もいると思うのです。
 学ぶことの基本、それがいつの間にかテスト優先のために、ずれてきているような気が致します。
といっても、私たちも学校生活を送っていた時代はテストがあったわけで、
「いまさら・・・。」と言われてしまえばそれで終わりの感があります。
 しかし、私にはどうしても納得がいきません。
ひとりひとりの目を見ながら一対一で伝える方式をとっていると、
目の前の子が、書いてあればいい主義で日々の勉強を味わっているのだとすると、なぜか虚しさばかりになってしまうのです。
 もし、テストがなかったら、きっとテストで歩んできた子たちは絶対に勉強などしなくなります。
だってテストがないのですから・・・。もし、はじめからテストのない勉強でスタートしていたら、きっと答え優先ではなく、
「なぜ、そこのところがそのような式になるんですか。」
「なぜ、私のやり方は正しい答えにならないんですか。」
などと、納得のいくまで質問攻めになるかもしれません。
実はこの光景、真の学びの光景ではないでしょうか。
 学校生活スタートから、テストなしでスタート。
でも、保護者の方々に学校での様子をつぶさに伝える必要はあります。
保護者の方々は、なにが知りたいか・・・。しっかり前向きに取り組んでいるか・・・。
学校生活を謳歌しているか。そこに最も大きな授業者の手腕がかかってくるわけですが・・・。
 そこのところの授業者の大きな労力軽減を図るため、テスト導入、数字で評価。
実はこの数字による評価は、授業者側の一方的な「楽」を追求したものではないでしょうか。
大学のセンター入試も、機械化が進み、マークシート方式にすることでコストダウンできるための方策。
結果、暗記能力を試すものが多くなってしまいました。
問題解決能力を問うような記述式はなかなか採用されません。
授業をする側の一方的な「楽」主義が、このような子どもたちの心の動きを作ってしまったのかもしれません。
これも皮肉たっぷりでごめんなさい。今の学校の先生方は、忙しくて大変です。
信じられないくらいの労働を日夜送られています。
よほど神経の図太い方か、くよくよしないことを上手になさっている方が、かろうじて健康を保っているのかもしれません。
そのくらい学校の先生方はご苦労なさっています。
 少しでも、「過程が先!」という子どもたちの反応を作り出すことができれば・・・。
 私の理想、少人数でテストは入学時点から一切なし、評価は文章形式で報告。
子どもの心の動きなどをつぶさに観察しながら、前向きになれるような授業形態を模索する。
兎にも角にも、助け合う勉強が一番。目の前の人からニコッとされて「ありがとう」って言われたら・・・?
 「よーし、もっと勉強して、ニコッとさせたいな。」ありがとね。




第291号
「愛の反対」
 昨年、俳優の高倉 健さんが亡くなりました。その後のTV局の高倉さんを忍ぶ番組の中に興味深い言葉をうかがうことができました。
 「愛の反対は『無関心』だから、僕は無関心ではいられないんです・・・・。」
はっきりとは覚えていないのですが、高倉さんの生き方の原点がそこにあるのではないかと、強く印象に残りました。
 簡潔に考えると、無関心な生き方をしているということは、『愛』がない、ということ。
すぐさま浮かんだのは、子どもたちの現実です。
あまりにも学校での勉強に無関心すぎるのではないか・・・。
ということは、子どもたちは『愛』を全く持ち得ないまま日々を過ごしている・・・。
それって教育なのか・・・。それって学校なのか・・・。
 とても極端なのかもしれませんが、そう思えてならない気持ちが、私を包んでしまいました。
 マララさんのメッセージの中に、
「なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。
なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか。」
と、ありますが、マララさんの言う学校には、間違いなく『愛』が溢れているはずです。
 学ぶことに関心を抱き、「なぜ・・・そうなんだ・・・わかった」というワクワクさせるような学校像があるはずです。
 しかし、今の日本の現状はどうなのでしょうか。
日々、成績に脅かされ、結果に不安が募り、意欲は姿を消し、
毎日、何事もないようにと、静かに座っている子供たちが多くいることを、どのように受け止めたらいいのでしょうか。
 きざな言い方かもしれませんが、『愛』ある学校が本物の学校であり、
無関心を決め込んでしまうような子どもたちが生活する場所が学校ではないことを、前面に出さなければならないのではないか・・・。
 経済大国日本、ほぼ100%の子どもたちが学校へ通う日本、
その数字を誇りにしているような感がありますが、
通っていればOKではなく、学校へ無関心のまま通っている子たちを削除した数字が、
真の学校へ通う子供なのではないでしょうか。そうなるといったい何パーセントの子たちが学校へ通っているのか・・・。
 新しい年を迎え、さらに心を、身を引き締めて、高倉 健さんのいう『愛』を求めていきたいと感じました。
 ここへ来る子たちの中に、かなり高いパーセンテージで「成績だけ上がればいい、しかも楽に。」
というお子さんがいらっしゃいます。
私は口を開くたびに「あなた方が悪いわけではない、成績偏重の雰囲気が出来上がってしまっている環境が悪いんだよ。」と言います。
「そうか、そうだったんだ。」と、理解は示してくれても、なかなか一度沁みこんでしまったものは、そう簡単に切り替えることはできません。
 「成績がすべてではないんだよ。いかに前向きに歩こうとしたか、その過程が大切なんだよ。
一度ついてしまったトラウマから必死に脱出しようとする心、その心が大切なんだよ・・・。」
 跳び箱が苦手な子、プールが苦手な子、縄跳びが苦手な子、このような現象は、表面に現れやすいので発見が可能なのですが、
勉強についてのトラウマを抱いている子の発見は、簡単なものではありません。
 体育の時間に、泣きながらも跳び箱を飛ぼうとする子は間違いなく100点。
飛んだ高さで評価ではなく、飛ぼうとした心の度合いに評価を付けるべきだと思います。
 算数の計算に、過去、いやな思い出を持っている子
(簡単な計算を黒板上で間違えてしまい、周りからひんしゅくの声を受けた)
が、やがてやってきた黒板上の計算に、手を震わせながらゆっくりと数字を書く姿に100点です。
 その光景を指導者はクラス全員で応援するよう促すことが・・・『愛』。
書き終えた瞬間、「このクラスの皆に会えてよかった。」と、思えるような授業が『愛』。
青色発光ダイオードの発見で、ノーベル賞を受賞した天野 浩教授(54)は、
同じく受賞した、赤崎 勇教授(85)が、数千回失敗があったにもかかわらず、
いつもと変わりない前向きな実験を繰り返されていた。その光景がなかったら、
今の発見は得られなかった。と、おっしゃっていたのが強く心に残っています。
失敗や間違いを繰り返しながら成長していく・・・。
このことが学びの土台にあって初めて、教育なのではないでしょうか。
子どもたちの心の奥深くに宿ってしまった強いトラウマ・・・、
そのトラウマを退治すべく授業のあり方を考えていかなければなりません。
授業と言っても、ここでの授業は全体授業ではありません。
必ず子どもの目を見ながら、今、どのように私の言葉を受け入れているのか、目の前の子の心を覗き込みながら言葉を並べるようにしています。
前向きに聞こうとしているのかな。分かった振りをしてしまっているのかな。
説明なんて聞いてらんねーよ、なんて思いながら聞いているのかな。いろいろ詮索しながら言葉を並べます。
きょうも、明日も、あさっても、あなた方に関心をもって接しさせていただきます。
助け合う勉強。励ましあう勉強。間違えたとき、思わず「ニコッ」としてしまう勉強。
冷やかしなど一切ない教室。
100点が良くて、0点は悪いなどというムードなど全くなく、ただただ、ここに通う皆は、僕たちの、私たちの仲間たちなんだという教室。
理想が高すぎるでしょうか。子どもたちには無限の可能性があります。ありがとう。




第290号
「森の番人」
 ハリーポッター原作者のJ・K・ローリングさんと、日本語版翻訳者の松岡佑子さんが、登場人物の中で一番好きな人は、
森の番人で大男のルビウス・ハグリットだそうです。
ローリングさんの言うハグリット像とは、「彼は心が大きく優しく、うそをつけず不器用な人」なのだそうです。
 そこから感じられるひとつのことば・・・「安心感」です。
 子どもたちは、日々、様々な初めての経験をしています。
今まで知らなかったことや、勝手な思い込みになっていたことが、実際には全く違っていたこと。
その事実に出会ったとき、心には大きなショックが残ります。
 例えば私の恥かしい経験、小学校低学年当時、アジの開きがよく食卓に出ます。
その姿は目が並んでおり、カレイやヒラメのように広がっています。
私はアジの開きも、その姿のままで海の中で泳いでいるものと思っていました。
 例えばおまわりさんは悪い人を捕まえてくれる良い人、というイメージが強くありました。
だからきっとお金を盗まれた人に、盗まれた分のお金を渡してくれる人に違いないとか。
 きっと今を生きる子どもたちも、結構いろいろな勘違いをしていると思うのです。
その勘違いがわかった時のちょっぴり恥ずかしい気持ちを、そのまま黙って聞いてくれそうな人物像が想像できます。
 心が大きい・・・なんでもどんなことでも、「うん、うん、そうだったのか。それで・・・。」と、真剣に話を聞いてくれる存在。
優しい・・・「あれ、ちょっとばかり元気がないようだね。おじさんと遊ぼうか。」
うそがつけない・・・うそをつこうにもうそをつけるような材料が生活の中に存在しない。
つまり欲が全く人柄に現れない。
不器用な人・・・手先はすこしばかり器用でも、最後の最後でどうしてもうまくいかずに失敗ばかり。
見ていられない、知らずのうちに手を差し伸べたくなってしまう。
さて、子どもたちに、「この森の番人に一番なってほしい人は誰ですか。」
という質問をしたら、一番に返ってくるのが「おとうさん」ではないでしょうか。
大男にはなれなくても、心の大きな人には変身できるかもしれません。
時折、子どもに向かって「ニコッ」と笑顔を振りかけることもできるかもしれません。
ついその気がないのに「プッ」とおならをしてしまったときでも、「ごめん、今のはお父さんです。」と、正直に白状する。「よしっ、お父さんに任せなさい。」と言いながら、日曜大工に汗をかきながら作った棚が、その日のうちに壊れてしまう。
こんな光景が普段当たり前のように見られたとしたら、子どもたちの心に宿る一つの想い・・・「安心」
そんなお父さん像から想像すること・・・きっと会社でも結構失敗やっているんだろうな。
そんな時、大きな声で「ごめんなさい」って言っていると思うし。
時々、同僚の女子社員さんが忙しそうにしていると、お茶なんかそっと出しているのかもしれないし。
お父さんがいるから、会社の中はいつも明るいムードなんだろうな。
そんな父親像を学校へもっていきます。「先生が、ハグリットおじさんみたいだったらいいのになあ。」
なんて思っている子は多いのではないでしょうか。
教育の現場では、成績、成績と、どうしても成績が先走ってしまいがちです。
それを後押ししているのが、教育ご熱心なお母様方、お父様方。
結構先生方も、保護者の方々からの成績熱に背中を押されているのではと思います。
国でも都道府県別のランク付けがされるテストを実施しています。
いつのまにか、ハグリット像を連想させるような雰囲気は払しょくされ、ぎすぎすとすさんだムードが広がっていきます。
そのムードと同じムードが、家庭内でも漂いはじめたら・・・。
ご想像ください。子どもたちの心はどんどんと谷底へ落ちていきます。
「わたしの安心できる場所はどこなの」「ぼくがぐっすりと寝ることのできるところはどこなの」・・・聞こえてきそうです。
このところ数年は、年間の自殺者数が減少傾向にあるといいます。
しかしその中にあって、増加傾向にある年代があります。20代だそうです。
彼らは、大人たちの引いたレールの上を文句も言わず、黙って真面目に歩いてきました。
そんな青年たちが社会現実に直面して味わうもの「そんなはずじゃなかった」「なんなの、この現実は」・・・。
会社に一人でもハグリットおじさんのような方がいれば・・・。
学校に一人でもハグリットおじさんみたいな先生がいたら・・・。どんなに苦しくても、その想いを黙って聞いてくれる人がいる。
どんなにつらくても、いつ行ってもニコッと出迎えてくれる。そんな安心できる場所があれば、きっと彼らは追いつめられることなどないかもしれません。
そんな安心感を受け取ることのできる大切な場所・・・家族。そして学校です。
どうしても避けられない現実。資本主義社会の中にある当たり前なもの・・・競争。
その競争に勝ってこそ、会社は存在を続ける、良い製品も作られる。
でも、けっして忘れてはならないものを、子ども時代に心の奥底に土台として築かねばならないと思います。
いつでもあそこへ行けば出会える。ハグリットおじさんに出会える。
「ここはあんたたちの本当の家じゃ」と、子どもたちに言ってあげたいのです。ありがとね。




第289号
「無敵の人」
 とても気味の悪い表現です。何も知らない子どもたちであったなら、きっとかっこいいで終わっているかもしれません。ある日の新聞に載っていた表現です。
 「人間関係も社会的な地位もなく、失うものが何もない、罪を犯すことに心理的抵抗のない人間」のことだそうです。
 代表的な人物を掲げます。つい最近の人気漫画「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人、2008年の秋葉原の無差別殺傷事件の犯人などです。
 彼らは二人とも、進学高校出身です。幼少より優等生扱いをされ続けた人物が起こした凶悪な事件です。
大学受験に失敗し、親からはごみ扱いされ、就職しても過去のプライドが邪魔をし、収入の少なさに悲壮感を高める。
つまり家族間の大切な絆は姿を消し、社会に出たとしても過去の栄光が毎日のようにちらつき、孤立状態になる。心と心のつながりは閉ざされたままになる。
 今後、このような事件は増えることはあっても、なくなることはないであろうと専門家は指摘しているといいます。
 どんなに失敗したとしても、親の庇護の下でいることができれば、犯罪という魔の手は及んではきにくいと思うのです。
しかし、その親も経済的に困窮することになれば、やがて「金の切れ間は縁の切れ目」、「縁切った」と、宣告されるかもしれません。
今や、年収200万円を超えるのも大変だという20代の若者たちが多くいるといいます。
うまく就職の縁に恵まれた方たちとの格差は広がるばかりです。彼らの持つ感覚は、勝者か敗者。
その彼らを囲むご家族の方々も、同様にうちの子は勝者、敗者として受け取っているかもしれません。
 勝者、敗者、この両方に共通していえること、勝つか負けるか・・・。
小学校へ上がった当時からすでに勝つか負けるかという評価の世界に突入、
はじめのころ、子どもたちは、なぜあんなにお母さんは勉強のことをうるさく言うのだろう。
間違えたくて間違えているわけではないのだけれど、なぜあんなに感情的になって叱ってくるのだろう。
徐々に学校の勉強に対して恐怖心を抱くようになります。
 中学校へ入り、順位付けの評価が始まります。上位は勝者、下位は敗者。
同じクラスの級友たちは、やがて皆、敵になっていきます。
「自分の本音は絶対に出さないぞ、ここで出したら負けてしまう。
テスト勉強などやっていないといっておかなければ、今度のテストで負けてしまう。」
 大切な友だちとのこころのつながりは、見事にどこかへと追いやられていきます。
追い打ちがあります。「今度、となりの○○ちゃんに負けでもしたら、スマホなんか買ってあげないからね。」と、親からの脅迫。
 そして負ける。親からは絶縁状、友だちからの信頼はとっくになし。待ち構えていた「孤独」・・・。
 これはこの国が作り上げた「無敵の人」の初期の姿だといえると思います。
問題行動こそ起こしていないにせよ、何かのきっかけで、引き金が引かれるかもしれません。
 成績主義、合格主義はこの先もなくなることはないのかもしれません。
しかし、私たちが子どもたちに対し、絶対にあってはならない歯止めの力を行使しなければ、この先もこのような事件は起こり続けるのかもしれません。
 助け合い主義、人格主義であれば、きっと「無敵の人」という表現は死語になるのかもしれません。
 きょうも高校生が小学生の持ってきた質問に丁寧にこたえています。
小学生は尊敬のまなざしで先輩の表情を見つめます。
「大きくなったら、こんな人になりたい。」
 「○○ちゃん、いい人に出会えてよかったね。これからもいい人にたくさん出会えたらいいね。
そうしたら、今の勉強も、もっと楽しくなるわよ。」母からのあたたかい言葉。
 そんな出会いがあふれる空間を用意する必要があると思います。
ここはそんなところです。
でも、圧倒的に少ないのです。
能力別に区切られた教室で、競い合うことが必至とされ、負けたものはクラスを落とされる。
それが塾だと当たり前のように連想させてしまう塾業界。
 助け合いながら、ニコッとお互いに笑顔を交わしながら、思い思いに自分の目標に向かって取り組む勉強。
学校での成績はボロボロでも、今までわからなかったことがわかるようになった時のうれしさが忘れられなくて、どんどん先へ進みたくなった。
年下の子が年上の子にアドバイス。
 分校みたいな空間だけれど、なぜか安心感が漂っている。素朴な質問も、何の抵抗もなくできてしまう。ひとつの問題に、もう1時間30分もかけている。
 この光景、我が家の普段の光景。
 では問題です。そんな光景の中で育った子たちは、果たして「無敵の人」になるでしょうか。
 これからも助け合う勉強、自分で自分をしっかりと見つめながら、自分のスピードでこつこつと学んでいく教室であり続けます。
 なんだか、皆が皆、兄弟関係になっているよね。それも全くケンカをしない仲の良い兄弟ばかりが揃っている。
 そんな光景、ご両親にご覧いただきたいのです。きっとこころが温まります。みんなありがとうね。




第288号
「決断力」
 ある日の新聞紙欄に青木功氏(プロゴルファー)の記事が載っていました。豪快な生きざまを送った内容に、さわやかさが漂いました。
 青木さんの学歴は中学卒業、14歳からゴルフを始め、今に至っているとのこと。その過程が強烈です。
 中学時代、野球に夢中であったそうで、大切な試合の時、これに勝てば高校から入学の推薦がもらえるところまで来ていたそうです。
そして試合、9回裏、監督からリリーフピッチャーとして指名されマウンドに・・・第一球、それをキャッチャーが捕球に失敗、そらしたためサヨナラ負け。
たった一球で負け投手になったそうです。思わずキャッチャーに向かって「バカヤロー」と怒鳴ったそうです。怒鳴っただけでも気の強さがうかがえます。
驚くのはそのあと、あまりにも悔しくて、今までお世話になっていた野球に関係するものをすべて焼いてしまったそうです。
グローブ、バット、ユニホーム、帽子・・・。その未練を全く残さない潔さというか豪快さ。
 その後、ゴルフ場でアルバイトを見つけ働きはじめました。
中学生が学校サボってゴルフ場でアルバイト、校長先生には大目玉をくらったそうです。
 そして出会い、アルバイト先のお客さんが失敗したのを笑って叱られる、そしてそのお客さんに打ってみろと言われ打ってみる。
みごと空振り・・・。止まっている玉も打てない。その時の悔しさ、みじめさ・・・。それをばねに「絶対うまくなってやる。」と、今に至っているそうです。
 なんと豪快な決断力。子どもながらその決心を今に至るまで継続されている青木さんの精神力に脱帽です。
 自分の生きざまは自分が決める。
そのような生き方をしている子供たちが、今、果たしてどれほどいるのでしょうか。
 私が読んだ、小学生時代の「豊臣秀吉」、橋の上で寝ていると、蜂須賀小六に「邪魔だ、退きなさい。」といわれ、
「ここは俺の寝床だ、退いてたまるか。」と、啖呵を切った逸話と同じくらい豪快です。
 今の教育制度の中、常に「~しなさい。」と、
命令ばかりが際立って、なかなか自分が思ったような時間の使い方ができません。
常に背中を押されているような時間の経過。「宿題をしなさい」「勉強しなさい」「早く寝なさい」「早く起きなさい」「~なさい」「~なさい」
 さながらいやいや言うことを聞くロボット状態です。それもバッテリー切れのような動きの鈍いロボット。
 そんな子を見ながらイライラするばかりのお母さん。休日ともなれば、同じような動きをするご主人様?
 家族全体が、全く覇気のない状態です。
 ここでやはり大切なのは、こころの力です。
もう60年近くもゴルフをなさっているわけですから、大きな壁も山ほどあるはずです。
そして今がある。倒されても起き上がる。その不屈の精神力を自らの力で磨いてこられた青木さんに敬服です。
 青木さんの世界はスポーツの世界、しかし、孤独な個人戦の世界でもあるわけです。
他よりも上のスコアを出せばよいわけですが、これはスポーツをなさったことのある方は当たり前のことですが、己に勝つことです。
己が己に勝つことでより己を磨くことができる。
常に己がライバルなわけですから、隣には常に目標がいる。
常に己を小さくすることで、常に己を磨くべき精神力が現れる。向上心あるのみです。
 夏休み、日本中がお盆休みで勉強などしている子供たちは少ないはず、
その中にあって、午前9時から昼食をはさみ、ほとんどノンストップで勉強を続ける子どもたち・・・。
それも小学生。自分の意志で半分は取り組んでいるのですが、半分は、彼らの目の前で黙々と勉強を続ける先輩たち、中学生、高校生。
先輩たちに真剣な取り組みを目の前に、今までやったこともないくらいの長時間の勉強です。
 何とか乗り越えてね。この経験はきっとあなた方を大きくしてくれます。
 一つの小さな部屋で、子どもたちだけで繰り広げる真剣な時間。だれも「~しなさい」などと言う人はいません。
条件はただ一つ、ここへ来てくれたこと。
 ことわざがあります。「習うより慣れろ」・・・誰もこうしなさい、ああしなさいというアドバイスなどありません。
 目の前で真剣に向かっている先輩の姿に、ただ響いているだけです。そこに流れる思いやりの心。
めいわくをかけないように・・・。
 おもいやりの心と、やさしさの心が小さな空間を埋めています。皆、さわやかな表情です。
中でもちょっと違うのが高校生、なぜなら、昨年の中学3年生のときのほうが楽しかったそうです。
学校から出される宿題が少なく、自ら思い思いの課題に取り組めていたからです。
その時の勉強は楽しかったそうです。しかし今取り組んでいるのは高校から出された大量の宿題。
 やはり、命令されるものより、自らの意志で取り組むことのほうが真剣になれるし、集中できるようです。
 その隣では、英語が楽しくて夢中になっている中学生がいます。
この気持ち、生涯忘れることの無いよう、大切に保存してくださいね。皆さんありがとう。





第287号
「成績偏重」
 8月、アメリカの映画俳優であるロビンウイリアムズさんが亡くなりました。
私の大好きな俳優のおひとりです。彼の主演作品である「パッチアダムス」は、私の一番のお気に入りです。
自殺癖のある主人公(パッチ)が、自ら進んで精神病院に入った時、患者の一人に出会います。
片手を出し、「君、何本に見える?」誰もが4本にしか見えない指を差し出し、
「もっと奥を見つめるんだ、人の見ようとしないところを見るんだ。そうだ、8本が正解だ。」
生きるヒントをいただきます。そして、その映画の終盤、学生たちの前で演説をします。
「成績ばかりを追求していては、本当の学びを手に入れることはできないぞ。」
(Let that be the focus of your studies, and not a quest for grades.)
直訳すると、「あなた方の真の学びに焦点をあてなさい。成績を追及することではないのだ。」
 というようなことになりそうです。この映画の中では、翻訳者が「成績偏重」と訳しています。
 この映画、作成されたのは1998年。16年ほど前になります。
アメリカでも教育に関する問題は根深いものがあると思います。
ロビンウイリアムズが最も声高になっていた部分が、この部分でした。
監督さんも同様、この部分にこの作品のポイントを置いているように感じました。
 さて、夏休みも終わり、子どもたちにもいつもの日常が戻ってきました。
いったい夏休みの40日間は、子どもたちにとって何なのでしょう。
ある高校生は、毎日のように宿題に向かっていました。
その子は地域でも有数の進学校に進学したにもかかわらず、宿題に苦しめられていました。
「苦しめられて」と、あえて書かせていただいたのは、進学校に入学したのであれば、
夏休み40日、日頃から自分が取り組んでみたかった研究に時間を使いたかったのではと思うからです。
たしかに数年後、大学受験というものが待ち構えているかもしれません。
しかし高校受験という門をくぐった後、かねがね打ち込んでみたかった研究があったのなら、思う存分没頭していただきたいのです。
 真の生きることとは、ポジティブな状態が継続することだと考えている私ですので、
宿題に向かっている表情に活気がないのを見てしまうと、どうしても「青春」って何なのだろうと考えてしまいます。
 自由研究の宿題も出るようですが、やはりそこは後々評価につながることが脳裏に出てしまえば、ちょっぴり憂鬱なものになりそうです。
 評価関係なし、とにかくがむしゃらに、自由に、時間のことなど気にせずに、思う存分何でもよいから研究してみなさい。
そんな機会を持っていただきたいと思うのです。
 今、生きる目標をもっている子たちは少数だと思います。あるとすれば、部活動、成績、進学・・・。
たしかにそのどれもが、自身、集中を持って取り組むことができればそれに越したことはありません。
しかし私には何か物足りないのです。目の前にある「おかず」を真剣に食べているだけのような気がしてならないのです。
 おかずを作る。誰も食したことのない新型のおかずです。
 失敗したらどうしよう。変な目で見られたらどうしよう。などと、他を全く意識しない時間を思う存分持たせてあげたい。
そして出来上がったおかずを堂々と披露する。
「どうですか、私の作品は・・・。」「うー、まずい!」「えっ、そんなはずは・・・。」誰もがニコニコした空気であふれます。
 その40日間にあった共通したもの・・・前向きです。
 子どもたちには学校へ行き始めると極めて短い期間で、勉強に対する恐怖心が宿ってきます。
今の教育制度が簡単に変えられないのであれば、
せめて夏休みの間でも、恐怖心など全く感じない時間を持たせることができたらと思います。
ひとつのことに夢中になる。その延長線上にあるものが社会への貢献につながるものであれば、これ以上のものはありません。
人と争う学びではなく、自分の中で自分だけが自由に希望に満ち溢れながら泳ぎ回る。
つぎからつぎへと創造が広がる。そんな時間を持たせてあげたいものです。
 ロビンウイリアムズさんは、パッチアダムスの中で常に明るさを振りまきながら患者さんたちと触れ合います。
ある老婦人が夢を語ります。
「私の子供のころ、母がよくスパゲティーを作ってくれた。だから、一度でいいからスパゲティーの海の中で泳いでみたい・・・。」
パッチは実現させます。多くの看護士さんや医師の見守る中で、拍手を浴びながらスパゲティーのプールの中をパッチと二人で泳ぎます。
 体の中の病は癒えなくても、心の中の病はすっかり治ってしまいます。それも大切な医療です。
 私は日頃、子どもたちの技能や成績に直接携わる仕事をしているかもしれません。
でも、感じます。
子どもたちの心を元気にさせることが、子どもたちが自分自身の力で次から次へと、連鎖的に力強く歩けるエネルギーを作り出すに違いないと。
それは成績が上がったからではない。間違えても、何度でもひたむきに歩こうとすることを、褒めて褒めたたえることではないかと。
 僕には、私には、前向きに歩くことのできる空間がある。
どんなに失敗しようとも、前向きになっていられる空間がある。そんな空間づくりに勤しんでまいります。
ありがとね!まじめさんたち・・・!





第286号
「ただいま」
 今年のキャンプも天気に恵まれ、にぎやかなうちに終わりました。
毎年、キャンプ場の奥さんに言われてしまう一言、「おかえりなさい」。
 私には、毎年この一言がとても小気味よく聞こえてなりませんでした。
そこで今年はキャンプ場に着いてから、みんなで「ただいまー」と、スタートしました。
私が参加者である子どもたちに頼んだのはこれだけ。さて、その後どうなったのか・・・。
 キャンプ場のオーナーさんや奥さんがいる一階の売店へ降りていくなり、
毎回「ただいまー」と、元気な声で入っていくのです。毎回です。
これがどれだけオーナーさんご家族の心を温める言葉であるか。
 毎年、キャンプ場へ行くのを楽しみにしているのは私たちだけではなく、
キャンプ場のご家族も、私たち同様、とても楽しみにしていてくださっていることが、身にしみてわかる今回のキャンプでした。
今回の参加者たちはすぐにオーナーさんに懐き、その夜からは毎日のようにオーナーさんからバンガローへ訪ねてくださいました。
 平日であったことや、他の団体さんも特にいなかったことなどが幸いし、毎日訪ねてくださいました。
写真でもわかるのですが、とにかく楽しそう・・・。ほうとうづくりを粉から完成まで教えていただきました。
それも子どもたちだけでです。麺作りは女の子たち、湯を沸かすのはもちろん薪から、それは中学生の男の子たち。
ガスを使わず、薪から着火の醍醐味を味わいます。みそを溶くのも5年生の女の子です。
 「いただきまーす。」贅沢な味わいです。
 初日から大家族が発生した賑わいです。
 さて、今の子どもたちの日常の中で、どれだけの子が家に帰ってきたとき「ただいまー」と言っているのでしょうか。
もちろん誰もいなくても「ただいまー」という子もいると思います。
でも、やはりどんなときにも「ただいまー」、家の中からは「おかえりー」という返事が返ってくる安心感は何にも代えがたい光景だと思います。
 もちろん家を預かるものにとっても、元気な声で「ただいまー」とやってくれば、心の奥底からしあわせが湧いてくると思います。
おもわず「おかえりー・・・。」
 そのことばの掛け合いから家族であることの安心感が家じゅうを覆い尽くします。
今はとても共働きの方が多くなりました。特に低学年のころには学童保育クラブなどを利用されている方も多くいらっしゃいます。
お子さんはご家族が迎えにいらっしゃるのを一分一秒心待ちにしながら、今か今かと待っています。
「こんにちは」と、お迎えに来てくれた時のうれしさをご想像ください。
と、同時に、「こんにちは」と、声が聞こえたときに、自分のご家族ではなかった時のがっかり観をご想像ください。毎日のように待つ・・・。
 子にとっての贅沢な光景は、いや、当たり前であってほしい光景は、いつでもお家へ帰ってきたときには
「ただいまー」そして「おかえりー」の返事が聞きたいと思うのです。
家族は毎日「ただいまー」の声色を聞きながら、「きょうはちょっと元気がないな、どうやら学校で何かあったらしいな。」と、察し、
「何か学校であったようだね、話してごらん。」「うん、実はねー・・・・。」聞いてくれる人がいる。
理解してくれる人がいる。ああ、この家に生まれてよかった。
 家族の絆はますます太くなっていきます。子は心から家族を敬います。
「おとうさん、おかあさんを悲しませたくない。」
当たり前かもしれませんが、今、この当たり前なこころが子どもたちから少しばかり遠ざかってしまったような気が致します。
 佐世保で起きた16歳の高校生が同級生を殺害した事件、加害者家族が、もし、「ただいまー」が当たり前の家族であったのなら・・・。
加害者がなぜ一人暮らしをしなければならなかったのか。
「ただいまー」「おかえりー」
 加害者ははたしてこの言葉を何回口にしたのでしょう。
加害者家族の方々は、何回「ただいまー」を聞いたことがあるのでしょう。
 ここへは勉強が大嫌いになっている子たちが多数やってきます。
その子たちのお母様方に共通している言葉があります。
「うちの子は、勉強しなさいと言ってもやらないのです。」
 もし、「ただいまー」「おかえりー」が日常の家族であったのなら、ひょっとすると、
「私は今までに一度も、勉強しなさいと言ったことがありません。」というご返事が返ってくるかもしれません。
 家族の絆、このあって当たり前のものが今、徐々にほどけていっているような気が致します。
 絆は何気ない当たり前のものからしっかりと育つものではないでしょうか。
 今回のこのキャンプ、けっして血はつながってはいないのですが、皆が皆、大家族の一員として楽しそうに時を過ごす。
その光景が、私には至福の時間に映りました。
 君たちの「ただいまー」が、このようにして幸せを作っているんだね。
今年も縁あって、毎年のように来てくれるFさん、Mさん、卒業生の方々、スタッフの皆さん。ありがとうございました。そして、みんな・・・




第285号
「消しゴム」
 けしごむの記事をどこかで読み、その余韻がなかなか取れないでいます。
ある教育関係者の方のご発言だったと思います。「消しゴムを使ってしまうと、
過去の足取りが消えてしまい、どこで間違えたかがわからなくなってしまう。
だから本来、教育の世界ではけしごむの使用は避けたほうが良い。」のような内容であったと思います。
 私もかなり以前より、消しゴムに関しては気にかけていました。
その特徴が、勉強に自信を持てない子は、消しゴムを多用するということです。
 これは消しゴムから見えてきた二つの側面です。
ここでは後者について掘り下げてみたいと思います。
 消せるものなら消し去ってしまいたい。思い出したくない。
といった内面からの叫びを反射的に行ってしまうのでないかということです。
過去のトラウマ、あのときの母の一言が消えない、あのときの先生の一言が消えない、あの時の友だちの一言が消えない・・・。
目をつむると鮮明に浮かび上がってしまう光景を、今すぐに消し去ってしまいたい。
そのような、自分では全く気付かないものを消したいがための反射的行動が、内面で働いているような気が致します。
 では、消しゴムの持つ二面性について私が感じたことを・・・。
 正常ではと思われるものです。脳裏に次々と浮かんでくることを短時間で書き上げてしまいたい。
どうしても書き方が早くなる。
書いている間にも、あふれるように言葉が浮かんできてしまい、指の動きと言葉の浮かびのリズムが微妙に狂った瞬間、
「あっ!」という間違えです。
これはこころがかなりのスピードで前を向いている瞬間です。
書こうという気持ちが先へ行ってしまうと同時に、書き留めなければという言葉の溢れがバランスを崩してしまうときのミスだと思います。
 次が「?」がついてしまう行動です。
小学校低学年当時から癖になっている子が多くいるのがこのタイプです。
小学校へ入学し、希望に夢あふれながら通っていた時期から、
「評価→テスト」が始まり、最も陥りやすいのが「母の一言」。
 「こんな簡単なところもわからなかったの?」「こんなやさしいところを間違えちゃったの?」といった内容の発言です。
本人からすれば、間違えたくて間違えたわけではないのに、十分自分が悪いことはわかっているのに、
輪をかけてさらに追い打ちの言葉が出るなんて・・・。
こころからお母さんを尊敬しているのに、お母さんに迷惑をかけたくないのに、
なぜそんないじめに近い言葉を浴びせるの・・・といったような気持ちです。
そして現れるのが、「私は一生懸命にやっているの、ぼくは精一杯やっているんだよ。」です。
その証明として「消しゴム」が登場します。
 そんな気持ちを分かってほしい、というひとつの心の表れが消しゴムの多用だと思います。
 書いて消す、書いて消す、の繰り返しをする子は、そんな不安定な心の状態になっているのではと思います。
「学ぶ」という本来の姿からは程遠い状態になっています。
これでは悪循環が繰り返されるだけで、お母様方が望んでおられる「成績」はほとんど望みがなくなります。
と同時に、そのようなお子さんの心の状態を作ってしまった原因は、お母さんご自身であるかもしれないのです。
 そのような症状のお子さんをたびたび見かけてきましたが、ほとんどと言っていいくらい、お母様の教育熱は高かったということです。
つまりお母様が「成績」に過敏であったということです。
 もう一つの症状です。こころない言葉を教室の中で浴びてしまった場合です。
「おまえ、こんなところもわかんないの。」などと一度でも言われようものなら、
「そんなことはない、しっかり書いているよ、ほら、しっかりペンを動かしているじゃないか。」
といったメッセージを周りに発信します。それが書いて消す、書いて消す、の往復運動です。
 たしかに傍目では、さもやっているような感覚にさせます。
もう二度とあのような言葉を浴びたくないという、自己防衛反応の表れだと思います。
「だからもうこっちは見ないでね。」となります。
 学ぶことに自信が持てない・・・
この現象は「成績」がもたらした最大の欠陥でなないでしょうか。
本来「学び」は、自由に積極的に、こころをポジティブにさせていくこと。
生きようとする心を育むこと。「さあ、今日はどんな学びが待っているのだろう。
どんな新しいことが待っているのだろう。そしてどんな間違えがその中に潜んでいるのだろう。楽しみだなあ・・・。」
 学びは実験の世界です。「こんなことしたらこんなになっちゃったー!」
「へー、なぜなのー!」「じゃー、もう一回しっかり振り返ってみようよ。」
子どもたちの瞳が爛々としているのをお感じになられると思います。
 国語でも算数でも、社会でも理科でも、間違えるから面白いし楽しいはずです。
例えば国語、「もううしこんじゃっているので、ここからははいれません。」→
「う」がひとつ多かったことで、「うし」がいっぱいいるので入ることができないと勘違いをします。
「う」を取ると、申し込んであるので入れないとなります。
 「成績」がなければ、ひょっとするとけしごむの消費量は激減するかもしれません。
授業参観の際に、お子さんの手にする消しゴム、少しばかり意識してみてはどうでしょうか。
頻繁に使用しているようであれば、それはお子さんの責任ではありません。
ひょっとすると、お母様ご自身の過去に何かがあったかもです。これを読みながら、そっと消しゴムに手を伸ばしてはいませんか・・・。





第284号
「旅」
 前回、東京大学の学生さんたちが1年間休学をして、留学やボランティアなどの活動をするという内容のことを書かせていただきました。
一年間の休学、かなり勇気のいることだと思います。
日本のトップレベルを行く東京大学が行う制度なだけに、その意味はとても大きいと思います。
と同時に、周りの方々の深い理解がなければ成せないことだと思います。その筆頭が「ご家族」。
 もし我が子が、単身外国で一年間を過ごすと言いはじめたら、はたして許可されますか。
親としてみれば、かなり複雑な心境になられるでしょう。それを承知の上で、この制度に踏み切った大学側の意気込みが感じられます。
 私は、子が大きく成長するには「旅」が効果的だと思っています。
今までぬくぬくとご両親の庇護の下で育ってきた我が子。
ご両親にしてみれば、我が子の成長の思い出が目をつむれば昨日のことのように浮かんでこられると思います。
我が子はいつまでたっても我が子。かわいいに決まっています。
 大きく経済発展を遂げた日本の生活レベルは、世界でもトップクラスになるはずです。
その中にあって、今の子たちは経済的な危機感をあまり感じないまま育ってきていることも事実だと思います。
 「我が子には経済的な苦労を掛けたくない」と思われるのはごくごく当然かもしれません。
母がパートをしながら子の教育費をねん出する。親からすれば「してやっているのに」ということになるのでしょうが、
子からすると、経済的な苦労をさせたくないと言いながら働いているわけですから、その苦労を知らないままになります。
すこしややこしい表現になりました。
 つまり、子にとっては「お母さんが苦労しているんだから、自分はその苦労にこたえるために、一生懸命勉強して良い成績をとればいいんでしょ。」
ということになりがちです。
が、しかし、現実はそうはいかず・・・
子の成績は一向に上がるばかりか、机にも向かわない、そしてやってくるひとつの行動・・・母がキレル。
 これでは家族という単位が全く意味を持たないことになってしまいます。
最低限の支え合いが家族の定義だと私は思っているのですが、その支えも子には全く感じることができずに時間は流れていく。
 ここで重要なのが「距離」です。
 人はなぜか距離をあけると、恋しい心境が現れやすくなると思うのです。
その一例が卒業式、今まで、隣にいるのが当たり前だった級友が、ある時点をもって会えなくなる。
さみしさと一緒に、良き思い出がよみがえってくる。あれだけ嫌いだった先生たちにも、もう会えなくなる。
それだけで起こってしまうある心情、「まっ、許してあげようか・・・。」結局、卒業式では涙、涙、涙・・・。
 強制的な別れは、人にある意味を語りかけてくれます。
その人が自分にとってどのような人であったか。
そのもっとも頂点にあるものが「死」なはずです。二度はない決別です。
 距離をとることは、とても大きな意味を持っていると思います。
ですから叫びたいのです。「かわいい子には旅をさせよう。」
 旅による子の成長は多大なものだと感じています。社会には危険な因子が多く存在もします。
そのハードルさえ乗り越えれば、かなり多くの親御さんが「旅」に理解を示されると思います。(ここでいう旅は、子と長期間離れて暮らすこと)
 先ほどの東京大学の1年間休学制度に見られるように、国が積極的に、子が旅に出られるような仕組みを作るべきだと思います。
例えば、国の厳格な検査を受けた職場を多数用意し、そこで1年間、「働く」という意味を学ぶ。
国の後押しがあるわけですから、子の安全も保障される。
かといって、甘やかすことなく、一般の企業と等しく働くことの厳しさが存在する。
つまり、今にも潰れそうな零細企業であっても、そこに暮らす人々は、皆、国が補償する、
国を代表するにふさわしい人柄の方々ばかりだということです。
 そこで子たちは、生きることの意味を習得しながら、同時に人柄も習得する。人を思いやることを習得する。
そして1年が経ち、自らがどのような人生を今後歩むべきなのか、1本の強い理念を抱え歩み続ける。
 とても叶うようなことではないのかもしれませんが、
今回の東京大学の試みは、今後、大きな意味を持ったものに成長していくのではと感じています。
 この小さな教室の中には、以前より同様なことが繰り返されています。
泊まり込みで生活するわけではないのですが、例えば、私が作る料理を食したあとは誰となく食器洗いを始めます。
そして誰となく布巾をもって食器を拭きはじめます。
お客さまが来られると、それとなくお茶を出す子。
イスを出す子。その中には「旅」が存在していると思います。
 別に脅迫など一切しておりません。
言えることは、子どもは先天的に人のために尽くしたいという気持ちを強く抱えていると思います。
ある小学3年生の子は、私が打ち出したプリントをプリンターからせっせと持ってきてくれます。
 人の喜ぶ顔が見たい・・・きっとそんな気持ちは誰もが共通して持っているのでしょう。
でも、それをそぎ落としてしまうものがいます。それが「成績」です。成績なんかに負けないでね。ありがとね。





第283号
「怖くない」
 ある日の新聞、「失敗することが怖くなくなった。」という記事が私の目に留まりました。
この感想を述べていたのが、東京大学の学生さん。では何をされたのか?
 『東京大学の新入生が1年間休学し、留学やボランティアなどの活動に取り組む特別休暇制度の第一期生11人の活動報告会が開かれた。
・・・中略・・・学生たちからは「異文化理解と、日本への愛着が深まった」「大学で学びたいことが定まった。」』(記事より)
 この制度は欧米ではかなり浸透しているようで、それをモデルにしているとのことです。
「ギャップイヤー」と呼ばれているそうで、勉強漬けになっていた学生たちに、前向きを身につけていただくことが狙いだそうです。
 つまり勉強ばかりしていると(同じ環境の中にばかりいると)、内向的な気持ちが強くなってしまい、
自ら外へ出ようとする気持ちがなかなか湧かなくなってしまう。
これでは将来、社会貢献ができるのか不安になってしまう。
このような現象を何とかしなければという大学側の考えがあったようです。
 毎年のように繰り返される入試、大学合格のために、日夜勉強の日々を送られてきたでしょう。
その意味では「合格」という二文字を手にすることが、自分の人生の最大の目標であったわけですから、前向きととらえることもできそうです。
何といっても東京大学です。「成績と呼ばれる世界」のエリートコースを歩んでこられた方々が多くいらっしゃるはずです。
成績上位、つまり失敗の少ない位置。なぜ東京大学がなぜこのような制度をはじめたのか。
その答えがはやり記事の中にありました。
「受験勉強で身についた受け身の学習態度」
この一文がはっきりと物語っています。
つまり「受験勉強ばかりしていると、受け身な性格になってしまいますよ。」と言っているように感じられます。
当然彼らは小学校、中学校、高校と、国の定めた教育制度というレールを歩んできたはずです。
その中にあってトップクラスの彼らたちが、なぜ内向的気質になってしまうのか。
先ほどの『受け身』だと感じます。
受け身、つまり「やりなさい」という命令調の勉強に何の疑いも感じぬまま歩んできた学生たち・・・。
ではなぜ不安を感じないのか、その答えは・・・「周りが皆そうだから」。
例えば、電車の中で、かなりの方がスマホを触っていらっしゃる。
これがスマホなどない世界からいらっしゃった方が見たら、おそらくびっくりされるでしょう。
でも周りが皆そうであれば、別に違和感なしになっているだけのこと。
つまり「勉強」というと、受け身が当たり前になっており、勉強=テストが当たり前になっており、合格・不合格が当たり前になっている。
結果、子どもたちに自然に身についているのが、「間違えは良くないこと。」そして「受け身」。
誰でも間違えたくないのは当たり前、だから間違えないようにするにはどうしたら・・・と、考え始める。
そしてたどり着いたのが、「内向」。
子どもたちに罪は一切ないと思います。そのようなレールを皆歩かされたら、きっと誰もが同じ心境に陥ってしまうでしょう。
さて、私たちは様々な人との係わり合いの中で生活しています。
今回のこの「ねがいましては」でもそうなのですが、私は以前より前向きを題材に掲げたものを多く取り上げてきました。
日々かかわる子どもたちを見ていて、とても残念に感じてしまうことが多くありました。
そのほとんどが後ろ向き・・・。なぜだろう、なぜ生きているのに、生きようとしないのだろう。
思考を重ねているうちにある一つの答えが見えてきました。それが「制度」です。
今の教育制度のあり方が、色濃く子どもたちに影響している。
よく、世界的にも日本の教育は優れているといわれます。それはどこからそう判断しているのでしょうか。
おそらく、OECDの行っている「学力到達度調査」などの結果からなのでしょうか。
私は教育という二文字の定義が少し違うと感じています。
私の思う教育とは、「子らがどれだけ前向きな気持ちになったか」だと思っています。
つまり、学校を卒業したときに、「よーし、やってやるぞ」というような「生きてやるー」的な、
明らかに、今、生まれてきたばかりの赤ちゃんのような勢いを身につけることが真の「教育」ではないかと思います。
確かに世界へ向けて旅立つには、語学は必要でしょう。
最先端を行く日本の科学技術をさらにパワーアップさせるには、高度な理科や数学の知識も必要でしょう。
ほんのりと温かい気持ちにさせられる言葉に出会うには「国語」も必要です。
私という人が今、世界の中にあってどのような状態にあるのか、
歴史や地理、政治経済を学ぶことで、これからの自分を見つめることができるでしょう。
どの世界をとってみても、子どもたちが目を輝かせることのできるものばかりであるはずです。
自由に歩いてごらん。何を学んでも学びには変わりはないのです。
ただひとつ、思い描いていただきたいことがあります。
それは、人の笑顔を思い描いてください。
自分の学んだことが、やがて人々の笑顔に結びつくことを夢見ながら学んでください。
けっして自分だけのためではなく、他人のために生きることのできる力を育んでください。
今日もやってきました。「やっぱりここが一番勉強しやすいなー」ある高校生の一言です。ありがとね。





第282号
「動」
 少しばかりやさしいかな? さんすうの問題です。
 ある人は、全くといって良いほど失敗がありません。
いや、失敗など一度もしたことがない。失敗の数は「0」ゼロ。
 ある人は、失敗が他の人からするとかなり多い。失敗の数は一日に5回。
 さて、前者、後者、どちらの人物になりたいか。
 子どもたちのほとんどは、前者とこたえるかもしれません。
 最近とても興味深いことがありました。アルバイトをしてくれているⅯさん。
3月に入り、私の仕事量が以前より増して膨大なものになってきました。
やっと高校入試も終わり、これで少し自分の時間ができるかなと思いきや、今度は加盟する団体からの仕事がドカン!
 予定では無かったはずなのですが、突然依頼の声がかかりました。
うれしいこととして受け止めなければと思うのですが、目をつむると、1・2・3・4・・・。やることが整列します。
 その中に検定試験の合格証書作成があります。
加盟している団体では、年間6回の検定があり、毎回奇数月に行われます。
その関係で、偶数月の初旬は証書作成でかなり時間がとられます。
そんなこんなで困っている私を見てか、「私やります。」と、快い申し出あり・・・。
休日返上でやってくれます。私が団体の仕事で出張になっている間も、一人でこつこつとやってくれます。
 今までは失敗しても予備が調達できる級を専門に行ってくれていたのですが、
このたびの私の忙しさに、失敗があまり許されない級へも、果敢に挑戦してくれました。
量からすると今までの2倍以上、いや3倍になるのかな。
 で、しでかしました。失敗です。それもかなり多くの量なのです。
Ⅿさん、相当のショック。半泣き状態の表情に大変身。
先ほど申し上げた失敗があまり許されない級での不始末なのです。替えの証書がすぐには手に入らない級なのです。
 原因はいろいろあります。
早く終わらせたいという気の焦り、長時間行うことでの気疲れからくる集中力の低下、
普段慣れない分野に携わったことからの経験不足、などなど。原因がわかっても、
これは次回からの改善に役立てることにはなりますが、このたびの失敗については、即、解決策を講じることが先決です。
 これは当然私の仕事になります。
 ここで私からのⅯさんへの激励の一言。「今のうちにたくさん失敗をしておくことだね。
その失敗が自分を育ててくれるから。」
 まだ大学生のⅯさん。今年成人式を迎えたばかりです。
真面目と明るさが基本。それを標本にしたような子です。
もちろんKYOWA育ち・・・。そして積極的に買って出てくれた仕事。
この前向きがこれからの彼女を大きくしてくれるはずです。
肝心なのは次の証書作成の時に、引くか責めるか・・・。「もう一度やらせてください。」ときたら大正解です。
毎日汗流しながら家族を養うための糧を稼ぎ出しているお父さん、お母さんならわかるはずです。
会社で失敗したら、同じ仕事を再びしようとしますか、それとも・・・。
 私は、子が親の保護のもとにあるときは、おおいに失敗させるべきだと思っています。
失敗してもバックに強い味方がいる以上、その失敗は大きなことへとつながりません。
子どもたちにとって、その中心をなすものが学校生活です。
学校生活では大きく二つのジャンルでの生活になります。
一つ目が友人関係、つまり人間関係です。学級活動や部活動などはこれにあたります。もう一つが勉強です。
 子どもたちは日々真剣に生きています。とくに年齢が低くなればなるほど真剣味は大きくなります。
 ピッカピカの一年生時点で、学校への期待は最大に達します。
どんな楽しいことが待っているのだろう。どんな出会いが待っているのだろう。
期待と不安の比は圧倒的に期待の勝ちです。
 ところが時間の経過とともに、逆転が生じ始めます。「どうしよう」「やりたくないな」「会いたくないな・・・」。
 いつの間にか積極性は消えうせ、消極性ばかりになっていきます。
 失敗を恐れる心です。子どもたちの心理は単純です。「失敗さえしなければいいんでしょ・・・。」
 そして行動は最終段階に入ります。「何もしなければいいんだ、そうすれば失敗などない。」
 その子に結論が出ました。動きを止めた瞬間です。
 さて、先ほどのやさしいさんすうの問題です。
 ある人は、全くといって良いほど失敗がありません。
いや、失敗など一度もしたことがない。失敗の数は「0」ゼロ。
 ある人は、失敗が他の人からするとかなり多い。失敗の数は一日に5回。
 さて、前者、後者、どちらの人物になりたいか。
 子どもたちよ、お願いがあります。動くことです。
動いて動いて動きまくって、たっくさん失敗して、たくさんいろいろなものを吸収して成長するんだよ。
たくさん動くから、その分だけたくさん失敗もふえることはあたりまえのこと。
 つまり、失敗の多い人は、それだけたくさんのことを吸収している人だってこと。Mさん、ありがと





第281号
「ひとがら」
 受験生たちも全員それぞれの道がきまり、精神的にもピリピリ感から解放されたようで、のんびりとした表情が伝わってきます。
 受験とはいったい何なのか。勉強とは?
 それを考える暇もなく続いていた、目の前にある問題を楽しむ日々。
私の中ではそんな日々でした。授業の中で幾度となく繰り返される質問。
わからない問題が山積でした。
各自が用意した過去問題集には巻末に解答があり、解説も載っていますので、一行ずつ解読していけるのですが、
インターネット上から拾い上げる他県の過去問題には、答えさえありますが、解説はほとんどありません。
結果、当日中に解くことができず、私自身の宿題になります。
 翌日午前中、誰も意識しなくてよい時間帯にじっくりと腰を下ろします。
これが結構出来るのです。「なんだ、この考え方だったのか。」
 わりと単純な考え方だったのだと気づかされる問題が多くありました。
 どうしても後からあとから質問がやってくると、こころに余裕がなくなり、焦りばかりになり解けない。
この現象を再確認いたしました。つまり心に余裕がないときには、うまくいかないということです。
 子どもたちにとっての勉強は、ほとんどが「あー、やらなきゃ」という受け身からくるものが多いはずです。
やらなきゃ落ちる…。私にとっての勉強は、ただただ「解きたい」その一言。
その瞬間が楽しんでいる瞬間。
 その気持ちを持ちながら向かうのが常であったため、受験が終わっても、向かう気持ちにあまり変化がないので、歩き続けます。
 入試が終わった瞬間から机に向かわなくなることが、私にはとても違和感があります。
勉強の世界は宇宙空間のようなもの、広がりは無限です。
 だったら今から今までどおりの向かい方で楽しみましょう。
 中学校では卒業式10日くらい前から、その練習のためだけの登校のようです。
それ以外にもいろいろとやることがあるのでしょうが、ここでの日常を考えると、何とも勿体ないと思ってしまいます。
 休みの日といえば、ほとんど「ランチ勉強」が日課であったことを思うと、この時間がとても貴重に思えます。
「この10日間、毎日ランチだったら、すごい楽しめたんだろうね。」思わず口からこぼれてしまいます。
 とは言え卒業式が終わった翌日には、いつも通り彼らはやってきました。
さすがに卒業式当日はお休みが多く、クラスでの打ち上げや、ご家族との団らんなど、楽しい思い出のひと時を送っていたと思います。
昨日の式もなんのその、高校数学・英語に取り組んでいます。ここで身につけた表情のまま…。
学校のように、周りが同じことをしているときには、全く気付かずにいることが多いようです。
あの子がやっていないのだから、自分もやらない。みんなそうだから、自分もそうする。
このような感覚になっていた日常、ふと、今の自分を見つめる。自分の道はどうあるべきか…。
極々自然な感触を味わいながら歩む。それがなぜか失われている空間・・・学校。
さて、生き方は千差万別です。
他を意識することなく、自らが思ったこと、感じたとおりに生きてみませんか。
これはけっしてわがままだとは思いません。その判断の中には、しっかりと物事の良し悪しがあるはずです。
家族を想う気持ち、友を想う気持ち、その一つひとつがあなたの個性であり、人格です。
ひとは人と接し、ひととなる。ここへやってくる子どもたちのほとんどが、人がら最優先。
自分が自分が、といった自己中心的な子は皆無です。
人がらは人をひきつけます。そしてその人がらに感化されていきます。
パッチアダムスという実話の映画がありますが、その中に、ある聡明な老人が語る場面があります。
パッチアダムスに四本の指を見せて、「何本に見える?」少し間をおいて「・・・4本」と、パッチが答えます。
「なんだと、4本だと、頭おかしいんじゃないのか。」
これをお読みになっている方には、おかしい会話に感じると思います。
そしてある日のこと、やはり4本の指を見せて「何本に見える? 向こう側を見るようにしてごらん。」
パッチは目の前の指がぼやけて8本に見えたとき、「8本」「・・・そうだ、そうなんだ、8本だよ。
いいかい、いつも目の前のことに囚われてばかりいるんじゃない、先のことを見つめようとするんだ。いいかね・・・。」
パッチアダムスは、その一言に胸を打たれます。
生きるってこういうことなんだ。
そして懸命の勉強の結果、みごとに医師免許を取得、現在、アメリカで無料の医療活動を行っているとのことです。
さて、みなさん。高校へ行かれたら、やはりその高校の色に染まってしまうのかもしれません。
しかし、あなた方にはあなた方だけのたった一つの生き方があります。その生き方に素直に従ってください。
ここで培った「ひとがら」を引っ提げて、自分だけの歩みをなさってください。自分歩きの完成です。
その姿を見、目を細めて感動に浸っている方々がいらっしゃいます。
ご両親です。そして私です。ありがとう






第280号
「たいせつなこと」
 それぞれの顔が違うように、受験生たちの取り組みもそれぞれ・・・。
 今年の受験生たちは、過去問一色といった感がありました。
インターネットから、結構多くの過去問題が拾えるのです。
各都道府県のそれは、「へー」といった特色のあるものもあり、楽しむには最適といえました。
 黙々と取り組む表情からは、「どうしよう」などといった不安は感じられません。
「やるぞ」といった前向きなものしかうかがえません。
 私自身、合格のための勉強は、本来の「学び」から少々逸脱したものと感じていただけに、
100%乗り気ではなかったのですが、人を成長させるための一手段としては、
あってもよいものかもしれないと感じるようになりました。
 やらされる勉強から、やろうとする勉強へのギアチェンジが彼らの表情にはあります。
 ただひとつだけ、ぜいたくな考えかもしれませんが、彼らの生きざまに注文があります。
 合格するためだけの取り組みにしてほしくないということです。
取り組んでいることは、大切な基礎の段階が多くあります。
その基礎を携えて高校へとつながっていきます。その準備を今おこなっている・・・。
 よく某進学塾の窓ガラス一面に○○高校合格といった張り紙がびっしり貼ってあるのを見かけたりしますが、
それは塾側の、保護者側のおごりのように見えてしまいます。
 たいせつなこと、どこまで前向きな自分を発揮できたか・・・。
これから後、彼らはやがて親元を離れ、自立へと舵を取っていきます。
その舵取りをたくましい姿で行っているのか、それともおっかなびっくりで、親の手を借りながらとっているのか・・・。
それともまったく舵などとろうとしないのか・・・。その分かれ目こそが高校受験なのかもしれません。
 合格したければ志望校を下げればよいのです。
合格したければ、併願でなく単願で申し込めばいいわけです。
その制度そのものに疑問がありますが、合格の切符を手にする近道ではあります。
 自分自身を試してみたい、自分自身が生きているぞという感触を肌で感じてみたい。
その一つに受験があるのかもしれません。
 落ちてもいい、合格でもいい、とにかくやるだけのことはやってみよう。
けっして歩みは止めないぞ・・・。
という気概が手に入れば、結果などどうでもよいことなのではないでしょうか。
社会生活の中での失敗への予行練習かもしれません。
 「やったー、合格した。」・・・そのあと誰もが一瞬のすきを作ります。
「受験勉強から解放されたー。もう勉強しなくて済む―!」・・・歩みが止まった瞬間。
 「不合格。」・・・悔しい!とにかく悔しい! さあ、歩くぞ・・・! 歩みは止まっていません。
真剣に取り組めば取り組むほど、悔しさが残ります。自分自身への大きなバネの誕生の瞬間です。
そこには他人など存在しません。比べもない、成績でもない。ただ自分自身の生き様へのくやしさのみです。
 ただ最悪の不合格があります。「やっぱりね、どうでもいいけどね。」 
これが最も自分自身だけでなく、ご家族も含めて苦しみの極みへと前進してしまいます。
 合格でも、不合格でも、本人が前向きであったのなら、ご家族も安心です。
 社会は結果主義です。今おこなわれている冬季ソチオリンピック。
メダルを取る方々はほんの一握り。
連日、メダリストたちの演技が報道され、喜びのインタビューが繰り返し流れます。
ぼくも、わたしも将来そうなりたいと思う子どもたちが多くいることと思います。
90%以上の敗者たちのその後のドラマを報じることは少ないと思います。視聴率がそうさせるのでしょうか。
 あれほど多くのマスコミが取り上げていた高梨沙羅さんは、メダルが取れなかったことで、その登場回数は激減しています。
子どもたちに伝えなくてはならないことは、彼女のオリンピックまでの過程とご家族の姿。
何よりも褒めてあげなければならないことは、その生き様です。
そして私たちが考えなければならないのは、高梨さんにかける言葉です。
これをお読みになられている方なら、どのような言葉を用意されますか。
 今年、縁あって受験生として、このKYOWAで取り組まれた方々は、まさに全員が高梨沙羅さんです。
ご家族の声援を受け、一途に取り組まれたその姿こそがメダリスト・・・。
あなた方一人ひとりが主役の座にいます。どう生きようと自由、どう取り組もうと自由。
一心にご家族の期待を背負い、今があります。
そのご家族がもっともほっとされる瞬間は「合格」なのかもしれませんが、私は全く違います。
 常に先を見つめること。歩みを止めないこと。今を精いっぱいに生き切ることです。
 「合格。よかったよかった。さて、次だね。今日はどこを歩こうかな。高校の勉強、楽しいですよ。
いつものようにマイペースで歩いてみよう。」 
さきほどの沙羅さんへの言葉・・・私は「ありがとう」です。なぜなら、精いっぱいな姿を見させていただいたからです。
 だから受験生諸君、あなた方にも「ありがとね!」





第279号
「合えばいい」
 テストの積み重ねで、ほとんどの子がかかってしまう現象、「合えばいい」・・・。
数字はとても正直者、と同時に、人の心をある一つの決めつけに染めてしまうもの・・・。
勉強の本来の目的とは・・・?
 知らず知らずのうちに「成績」という現代社会が作り出した魔物に支配されていきます。
「合えばほめてもらえる、間違えれば叱られる」の連鎖で、知らずのうちに、自分の中に真の理解が定着していなくても、
テストで高い点が取れれば、それが一番良いことなのだと信じていきます。
それを最も助長するのが親の一言・・・。クラスの友だちの一言・・・。
 日常生活の中にうごめいている「くらべる」。
このくらべが、まさに「合えばいい」の最大の原因と言ってよさそうです。
 「そうか、そうだったんだ。」「うん、わかった。」といった理解が、勉強の本来の喜びの姿であると思うのですが、
「合えばいい」といった感覚は、なにか興ざめした感触を与えます。
さて、これをお読みになっている方のお子さんは、どちらのタイプなのでしょうか。
 たしかに今の季節、入試シーズン真っ只中、1点がその人の道を変えてしまうシビアな現実です。
カンニングしてでも点が取れれば合格がやってくるわけですから、「合えばいい」は現実そのものと言えそうです。
 目的を持っての取り組み、やらされるから仕方なしにやっている取り組み・・・。
前者と後者では天と地ほどの違いがあります。
目的をもっての合格は、合格の切符を手にした段階で次のステップにいち早く取り掛かります。
 自身の人生を冷静に見つめれば簡単にわかること、まだ自立へ歩き始めたばかりです。
一人前の大人として、プライドをもって、謙虚な姿勢で大人の方々のお世話になるには、「歩」を固めなければなりません。
 ただやらされるがままにやらされてきた勉強の場合は、
合格がその子にとってまったく歩を止めてしまう切符だということを承知していないと、
大切なお子さんはご自分の将来をダメにしてしまうかもしれません。
 当たり前です。
「そうだったんだ!」という理解の感動が希薄なままになっていますので、
本来の学びの姿を手にしていないわけですから、勉強は本人にとってつらいもの、邪魔物、嫌いな物のままになっています。
 私は子どもたちが小学校入学時から、比べのない、評価のない、成績のない学びを与えるべきだと思っています。
 その子たちひとりひとりが、その個性を十分に発揮できるような環境を整えてあげることこそが、真の学びの場ではないかと・・・。
 「ぼくは、このように考えたからこそ、このように結論付けた。」というような、
思考能力を身につけることこそが必要なのではないでしょうか。
そこにあるものは、その子の個性であり、魅力になるからです。人の魅力とはそのようなもののはずです。
 大学へ行くと、いよいよ論文中心の学びへと変化していきます。
ほとんどの大学の教授の方々が嘆いていらっしゃること・・・
論文の多くがことごとくインターネットで拾ったものであるということです。
 「単位がもらえればいい」・・・これとつながるものが「合えばいい」ということになります。
 合格した、次は「卒業できればいい」→「就職できればいい」(なるべく好条件の企業)
好条件とは、大企業であること・給与・休暇・労働内容等々、贅沢三昧に選びあげ、就活の日々・・・。
皆、共通の希望を引っ提げての就活。
 当然といえば当然です。
「合えばいい」という共通したものに照準を合わせた時間がほとんどの子に浴びせられてきたことの結果だといえそうです。
 小学校一年生時から、基礎に加えて個性をしっかりと延ばすことのできる教育があったのなら、
ここまで共通した将来像を持たなくて済んでいるかもしれません。
 さまざまな人の生きざまを見つめ、さまざまな人の今を見つめ、そこから個性あふれる魅力を感じ、目標を掲げる。
 世界一おいしいクッキーを目指す。なぜならお母さんが作ったクッキーが世界一に感じたから・・・。
 世界一履き心地のいい靴をつくりたい。なぜならこの前履いていた靴でおおきな靴擦れをしてしまったから。
 とにかく2番目役をやりたい。なぜなら1番目に輝く人が喜びに浸っている表情を見つめるのが大好きだから。
 思い切り包丁を使ってみたい。だって、包丁の音を聞いていると、すっごく幸せな気もちになれるから。
 色を使う仕事に就いてみたい。なぜなら生まれて初めて見た虹が、今でも目をつむると浮かんでくるから。
 野菜作りに一生をささげてみたい。だって、田舎のおばあちゃんが作ってくれたトマトの味が今も忘れられないから。
 お医者さんになりたい。なぜなら僕が入院したとき、とても優しくしてくれたから。
 おまわりさんになりたい。なぜなら人を助けることが人一倍大好きだから。
 お母さんになりたい。だって世界で一番お母さんが好きだから。
 お父さんみたいな人と結婚したい。だって、お父さんが大好きだもん。
 今の家族のような家族が持てたらいいな。だって今の家族が大好きだから・・・。
 ありがとうね! ひとりひとりしっかり輝くんだよ。 「合えばいい」 ちっぽけだろ!






第278号
「達成感」
 毎年この時期になると、なんとなく中だるみになってしまう子たちがいます。
毎月行うことのできる全国統一模擬テスト(業者テスト)があります。
志望校を6校まで書くことができ、それぞれ合格率が%で表示されます。最高でも80%、最低でも20%、
この数字、結構うまくできているわけで、最高80%止まりになっていれば、いざ志望校に落ちても、残りの20%になったわけで、
いくら20%の合格率が出ていても、合格すればそれで良し・・・。
 ただここで気になるのが、中学校側との三者面談などで志望校がある程度決まってきて、
その学校を模擬テストで書き、結果が80%以上と出てくると、
かなりのパーセンテージで今までのやる気が萎えてしまう子が出てくるということです。
 「なんとか合格できるでしょ。」というわけで、今までの緊張感がなくなってしまうのです。
逆に合格率が20%ばかりとなると、危機感ばかりが先走り、今まで集中していた気持ちも「どうしようどうしよう」と、
何をやっているかわからなくなってしまったり・・・。
 そうなると、やはり「テスト」というものは、あまりいいものではないのかななどと感じてしまいます。
 大切なことは、今をどう生き切るか・・・。
 以前にも書いたと思うのですが、合格不合格など、競争的な要素の深い取り組み方をしていると、どうしても楽しさが感じられない。
常に落ちたらどうしようなどと、不安感がつきまとってしまう。
よーし合格するぞ!と、毎日張り切って計画を立て、黙々と取り組む子は少ないと思います。
 もっと先を見つめる・・・今が中学3年生であるなら、高校生活での勉強に手を出してもいいのではないでしょうか。
どんな世界が待っているのだろう。今行っている数学が、どんな発展をするのだろう。
たとえば二次関数などは、中学までは原点で作られていたものが、宙を自由に飛び回ってみたり(2次元でのこと)、
方程式が1つしかないのに、文字が2つあったり、サイン・コサイン・タンジェントなど、
富士山の高さが今ここにいながらわかったり、(地図を見ないで)。
 生物であれば、血液中の様々な要素がどのような働きを具体的に行っているか。
また、それは医学的にどのように役立てているかなど。
いよいよ本格的に専門分野を学ぶべく準備段階に入ります。
ただ言えることは、ここを卒業してやってくる高校生たちがやる勉強は、やはりテスト勉強だということです。
まだ来るだけ偉いと思うのですが、やっていることはテスト範囲・・・。
 以前見せていた自由な勉強の姿、毎日のようにパソコン釘付けで、
調べ学習をしながら自分だけのノート作りに専念したりなどという風景はなかなか見られません。
なぜならそのような学習をしようにも、後ろから押し寄せてくるものがあるからです。
学校からの宿題やテスト勉強、受験のための勉強です。
 この2者は大きなコントラストを持っています。やろうとするか、やらされているかです。
 これは達成感に大きな違いをもたらすと思います。
独学でこつこつと、それこそ1日一歩の世界、しかし自由がそこにはあるわけで、背中を押されるような威圧感もないわけで、
1日が終わり、全くと言ってよいほど進展がなくても、よしまた明日があるぞ、と、気持ち新たに向かおうとするのかもしれません。
 さて、受験生諸君たち、80%が出たからもういいやでは周りの人たちと全く同じ、
この教室で学ぶことは自身が自身の手で自身を成長させるべく歩みをすること。
そのために栗田を思う存分利用することです。
 けっしてあれやれこれやれなどと、命令はいたしません。ただ言えることは「歩みましょう。」
 こつこつと積み重ねです。100あったら99は失敗です。残りの1をつかみ取る練習です。
精一やって失敗を重ねる。これが「人」の厚みを増す方法。
負ける人の気持ちを思う存分味わってこそ「人にやさしくできる」はず。
 負けて負けて負けを積み重ねてこそ、真の強さをつかめるはず。
 そしてもっと人としての魅力を深めることのできる方法があります。
 負けた時、失敗したときに、自分のことだけにならないで、そのようなときにこそ「人」のために動けることができる人を目指してください。
そんなことを平気でやってのけることのできる人を見かけたとき、深い魅力を感じるのではないでしょうか。
素敵な気持ちになれるのではないでしょうか。
 さてあなたはどうですか。自分のことだけになってしまってはいませんか。
自分の心の手が、そっととなりの人の心の手に触れたとき、そしてとなりの人がそれを感じてニコッと笑みを浮かべたとき、
「人」を感じることができるのではないですか。
 あなたがたはけっして1人ではありません。必ず誰かがどこかで見守っています。
その一番近いところにいるのが家族ですね。そしてひょっとしたら友だちですね。そして私かもしれません。
「迷惑だあっちイケー!」ですか。ハイ!ごめんなさい、わかりました。
 というわけでそんな元気な姿を見られてうれしいです。ありがとね!





第277号
「同調圧力」
 ある日のラジオからなるほどというような四字熟語が流れてきました。同調圧力。
 西欧諸国に比べて、日本はとくにこれが強いということです。
学校現場に目を移してみると、皆、スマートフォンを持ち始めると、自分だけ取り残されたような気になってしまったり。
ある種のアニメがはやり始めると、そのことに熟知していないと仲間はずれになりような気がしてしまったり。
ゲームなどでも、今最も流行っているゲームを持っていないだけで孤独感を覚えてしまったり・・・。
 これは子どもたちの世界に目を持っていったときのことです。
では、お母様方の世界ではどのような同調圧力があるのでしょう。
お子さんが成績優秀であること。落ちこぼれでもしたら世間様や親類などに偏見をかってしまわないか。
大卒までいってくれないと、やはり周りの方々に顔を合わせられない。
そして名のある企業に就職浪人せずに内定がとれること。
 これ皆すべて、前回、前々回に取り上げた周りへの意識がもたらすものだと思います。
それによって、目に見えないさまざまな亀裂が生じます。
特に親の期待をずっしりとしょって日々生活する子どもたちには、気持ちの安らぐ暇がありません。
常に親の感情に気を止め、今日は叱られないか、明日は叱られないかと、不安な毎日を送ることになります。
 小さい頃から、「いい子だね」と、周りからいわれながら育ってきた子ならなおさらです。
どのような精神的圧迫があってもいい子でいなければなりません。
 最近、世界の教育について調べることがありました。
すると、欧米では「個」を大切にする教育が一般的なのに対し、日本や中国などアジア圏の国々では、「一斉」が主なのだそうです。
その理由として、欧米よりも後発であった日本は、明治維新とともに欧米に追いつけ追い越せとばかりに、
大勢の子どもたちを教室に詰め込み、知識習得優先の教育を行ってきました。
覚えれば点が取れるというわけです。
そして成績に競争原理を持ち込むことで、教師はあまり努力をしなくても大勢の子どもたちを受け持つことができたわけです。
 その中で時間をかけながらいつの間にかできあがってしまった同調圧力が、「成績優秀は良い」というものです。
 今の中国がまさにかつての日本に近い状態であると言えそうです。韓国もその例に漏れません。
学歴主義。良い成績を取っていなければ、この先の人生は真っ暗闇。
良い大学を出ていなければすでに人生は終わったも同然、などのような心理は、学校現場に放り込まれたときから、
競争の渦の中でおぼれそうになりながら生きてきた子どもたちの末期的な感情なのかもしれません。
きっと彼らが口々にする言葉・・・安らぎって何ですか・・・安心って何ですか・・・。
 ではそのような感情を抱かざるを得なかった原因を学校のみに絞っていいのでしょうか。
そこから大きなダメージを受け、生きてやるぞという力を失ったお子さんに救いの手をさしのべなければならない最大の存在は・・・。
 家族。生まれたときからずっと心のよりどころであった家族が、いつのまにか成績成績と、隣に寄り添うことをやめてしまったら、
子はどのようにしてつらい気持ちや悲しい気持ちを癒やせばよいのでしょうか。
やってくるのは孤独感のみ・・・。ひとりぼっちを紛らわせるための携帯、スマホ・・・。見つかればまたブツブツ言われてしまう。
 西欧では教師は教壇に立つことなく、ぐるぐると教室内を歩き回るそうです。
生徒たちはそれぞれの目的に集中しているだけ、その際に出てきた質問をぶつけたり、取り組み方のアイデアをアドバイスしたり。
つまりサポート役に徹しているわけです。
西欧では、幼少の頃から学びに対するモラルを徹底して教えるのだそうです。
これは家庭内でのごくごく自然なしつけとして扱われます。
授業中はしゃべらない。お話はきちんと聞く。など、最低限のことがしっかりと身についた状態で学校生活が始まるのだそうです。
ですから、教師は今更のごとく、「静かにしなさい」とか、「こっちを向きなさい」などと言う必要がありません。
高校現場では授業中に居眠りをするだけで不思議そうな顔をされてしまうくらいです。
 日本ではそのような行為を防ぐために「内申に響きますよ」とか、「授業態度も成績に関わっているよ」などと、
脅しにも似たようなことで授業を保とうとしているケースが多々見られるようです。
 今の子どもたちを助けることができるのは、一番はやっぱり家族。
学校で、しっかり先生の目を見てお話を聞き、おしゃべりなど全くしない。
そんな毎日を送りながらもテストは「あれー!」・・・。すばらしいお子さんです。
何がよくて何が悪いかをしっかりと自身で決定し、それを自らが力強く守ろうとしている姿。
同調圧力に屈しないすばらしい生き様がそこに展開しています。
 最近あった教室内の出来事です。
小学校1年生の子たちがキャッキャッと騒がしくしていると、私が上級の子によく使う言葉に、
「君たちが良くないと感じたのなら、君たちが動くべくだよ、それが助け合いだね。
何も言わずにそのうち先生がしかってくれるなんて思っていたら、それって学校と同じに近くないかい。
よく使うだろう、そんなことしていると先生に言いつけるよってね。そうではなくで、そう思ったら自分が動こうよ。」
 そして学年上の子が「ほら、静かにしようね。」「・・・・・・。」
先輩に言われた子は、これが効果覿面。とてもたいせつな光景。
「ぼくも、わたしも大きくなったらあのような先輩になりたいな。」・・・・・ありがとね。





第276号
「意識その2」
 前回、川村妙慶さんのウサギとカメのお話からのつづきです。
ウサギはウサギらしく時間を使えば良かったわけで、たまたまカメがいたことで自分自身の人生に狂いが生じてしまったことになります。
 先日、今年4月に行われた全国学力・学習状況調査の結果から下位校の校長名を公表しようとした静岡県知事さんのことが報道されました。
結局、上位校の発表へと変わったわけですが、まさに他県を意識するが上の行動であったと思われます。
 テストをし、結果を公表すれば、必ずどこかは1位になりますし、必ずどこかはビリになります。
それを気にするあまりに感情が先走り、今回のようなことになったのかなと思います。
 日本国内で大々的に行うテストであっても、やはり他の都道府県は気になるでしょうし、
これを中学校単位にまで移しても同じ現象が起こると思うのです。
 仮に地元のA中学校とB中学校の平均値が公表されれば、おそらく来年入学を控えている6年生たちは、
成績上位の中学校を選択するかもしれません。
それだけ数字はシビアですし、それぞれ学校内の学力以外の様々な良い点もかすんでしまいがちになると思います。
 教育の原点である「人間形成」を忘れて、ただただ点数主義の世界へと流されていってしまいます。
 もっともっと先を見つめた取り組みをすべきであると思います。
 その中心にならなければならないことが、子どもたちが前向きな生活を送ろうとすることです。
常に前へ前へと歩みを進めるような生活をすることです。競争ではない歩み方です。
 中学校現場では、中間テストで順位が出、期末テストで順位が出、それぞれの子どもたちは上がったの下がったのと、順位競争に明け暮れてしまいます。
本当は、この前やった理科の実験を、時間をかけてやりたかった。
テスト範囲ではないところにとても興味が沸いていたのに、テスト勉強に追われて、いつの間にかそのままになってしまった。
 かえって定期テストをすることでマイナス面のほうが目立つくらいに、子どもたちの心を前向きにすることの方が大切なのではないでしょうか。
そのような心を持った子どもたちには、もう「意識」などどこにもありません。ただ自分の道を歩むだけ。
 隣り合った中学校どうしの交流を深めたり、地域の方々との交流を深めたり、社会生活の原点を培うことが大切だと思います。
 学校と自宅との往復だけの毎日、学校でも競争、部活でも競争、家庭でも負けてはダメだ(成績を上げなさい)とお説教。
これでは自宅を一歩出た世界は、すべてが敵になってしまいます。
 ウサギとカメのお話が、実はウサギさんはカメさんと出会ったとき、お互いに生きる道は違うはず、
見たくれも違うし生活も違うのだから、どちらが先に目的地にたどり着くかなどばからしいことだから、
お互いに「らしい」生き方をしていきましょうと、あいさつを交わして走ったり歩いたりすればいいのではないでしょうか。
 さてと、子どもたちさん。どうやら学校へ入った瞬間から「意識」せざるを得ない空間へと放り込まれたようですね。
意識をしたらいいことないよって、昔の方々が教えてくれているではないですか。
ウサギはウサギ、カメはカメ。それぞれの個性あふれる生き様を精一杯にしてこそ「しあわせ」はやってくるのではないでしょうか。
 道ばたに咲く小さな花を見、「かわいいね」って、ほほえんだことはありますか。
道ばたに咲く小さな花に気づかずに、「くそーっ今度こそあいつに勝ってやる」なんて息巻いてませんか。どちらが幸せかな。
 人は人、自分は自分、自分が生き生きした生活を送れているか、家族に「ありがとう」の一言が言えるような心でいますか。
 とかく近くにいる方々には、距離が近すぎて「ありがとう」が出てきません。
意識してしまうとあまりいいことがないのですから、せめて意識しないでいつも近くにいる方々に感謝の気持ちを抱いてみてはどうでしょうか。
お父様、お母様、お子さんを意識しすぎるあまりに、ついつい他のお子さんを意識し、わが子を苦しめてはいないでしょうか。
子どもたちよ、ついつい他のご家庭の環境を意識しすぎるあまりに、お父様やお母様にわがままな願い事をしていませんか。
やっぱり「意識」ってあまりいいことはなさそうですね。
今ごろウサギさんとカメさんは、楽しそうにおしゃべりをしているかもしれません。
「ねえ、ウサギさんは足が速くていいですね。」
「いやー、早すぎて目立ってしまうので、キツネさんたちにいじめられるんですよ。カメさんこそ、のんびりと生活なさっていいじゃないですか。」
「そうですねー、おかげさまで長生きできてます。ありがとうねー!」






第275号
「意識」
 ある早朝、久しぶりのテレビ番組に目が止まりました。
「テレビ寺子屋」という番組なのですが、川村妙慶さんという方の説法だったのです。
 「ウサギとカメのお話で、なぜウサギがカメに負けてしまったのかおわかりになりますか。」という問いかけでした。
「実は、ウサギが負けたのはカメを意識してしまったからなのです。」
 それを聞いて、「これだ!」と思いました。
 まさにウサギにとってカメは勝ってあたり前の存在です。
どんな走り方をしても負けるはずがない。
ウサギの意識の中には、「カメなんかに・・。」といった意識があったことは確かです。
 人の世界もこれに同じ。子どもたちの日常の生活の中でも同様なことは起こっています。
成績という評価の中でうごめいている彼らの感情は、まさに『意識』花盛り。
テストが返却されるたびに「あの子は何点かな。
勝ったかな、負けたかな・・・。」意識が駆け巡ります。
「またか・・・どうせ私なんか何やっても無理に決まってるし・・・。」
この子は今までの自分を意識しています。
 小学校への入学、1年生たちはワクワク気分で学校へ通います。
時間の経過とともに徐々に表情に変化が表れ始めます。
1.合うことは良い、間違えることは悪い。
2.知ってることは良い、知らないは悪い。
3.速いは良い、遅いは悪い。
4.100点は良い。0点は悪い。
5.宿題を終わらせて来る子は良い、やっていない子は悪い。
 現代は結果主義の世の中。どんな方法でも、儲かれば勝者です。
そうは思いたくないという方が多くいらっしゃると思います。私もその一人。
だからこそお金が入ってきても、こころが貧乏な方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 さきほどの1~5への見方を変えてみます。
1.わからないので適当に選んでおいたら合ってしまった。これも良し。では、わからなくて選ばなかった子は悪い。
2.わからないから学校へ行っているはず、学校へ行く前から知っているのでは、学校へ行く意味がない。
3.速く終わって提出した子の字を見てみたら、解読不可能な雑な字でも良い。
4.100点とって鼻高々・・・「ここ教えてよ!」と誰かが来ても、「やだ!」と、跳ね除けても良い。
  0点とっても、いつも教室のゴミをひろったり、笑顔の絶えない子は悪い。
5.宿題を30分で雑に終わらせてくる子は良い。宿題に3時間かけて、でも終わらなかった子は悪い。
 まだまだたくさん出てきます。
 今の自分が精一杯に生き切っているか。
今の自分が今までの自分よりわずかでも成長しているか。
自分のことだけになってしまってはいないか。他人の心に目を向けているか。
他人の心の痛みに寄り添っているか。他人がニコリと微笑んでくれそうなことをしてあげているか。
 わたしにはどうしても防ぎたいことがあります。
 夢膨らませて入学した新一年生たちの笑顔が、時間の経過とともに少しずつ薄れてゆくことを・・・。
 これは紛れもない大人たちの責任です。重大な罪を犯しています。
それでも健気に笑顔を作り続ける彼らたち・・・。
 「悪い事をしなければいいんでしょ!・・・だったら何もしなければいいんだよ・・・。だから動かないでいるよ。」
 学校へ行かない、働かない・・・
ニートさんたちはきっとまじめすぎるくらいにまじめなスタートを切ったと思います。
でも、「何なんだこの世の中は・・・。」
唖然としているうちに動きを止めてしまったのかもしれません。
 ここ最近、時に目立ってきたことは、動かない子たちが多いということです。
ダメでいいじゃないですか。とにかくやってみましょう。
とにかくチャレンジしてみましょう。だってあなた方は青春真っ只中じゃないですか。
 意識のない心はどんなことを・・・。
「100点だったんだ、おめでとう。」と、こころから祝福してあげます。
「宿題でわからないところがあったから、わかりませんでしたって書いておいたんだ。」
「先生が読みづらいとかわいそうだから、ゆっくり書いていたら時間がきちゃった、へへへ。」
「あの子は0点とっても笑顔でいられる、すごいと思う。」
 「意識のない、皆が助け合って、皆が笑顔でいられて、皆がひとつになっていられるクラスにいたいな。」
そんなクラスで勉強がしたいな。
 結構近づきつつあるかもね! 
意識したらしあわせさんになれませんよ。
 きょうも涼しい風が教室に漂います。静かに時間が過ぎていきます。
マイペースな時間が穏やかな風景を作ります。
 皆さん、これからもご協力よろしくお願いします。ありがとね! 



第274号
「自然の恵み」
 今年のキャンプはスタッフさんたちに恵まれたものになりました。
 突然の父の天国への旅立ちから、なんとキャンプ前日が葬儀となり、
まったく準備のできない常態で出発と思いきや、スタッフさんたちの活躍で準備もオーケーでした。
 葬儀の疲れを感じる間もなく、毎年の景色の中で感じること・・・
自然の中にぽつんと一つのいのちが生かされている。
いつ何時、別れが来るかわからない。だからこそ『今』を大切に生きなければ・・・。
 深呼吸をして、体中にしみわたる空気。こころが一瞬にして透き通っていくのを感じます。
 今年は釣りをするぞという決意を固め、CAMP開始二日目早朝、
西湖ではなく、40分ほど車を走らせたところにある田貫湖へと向かいました。
スタッフの子たちにも「明日、早く目が覚めたならつれていくよ。」
と声をかけておいたら、なんと、Mちゃんは4時半に来てみたら、
まだ私が寝ていたとのことで、戻ってしまったとのこと。
Yちゃんは5時ピタリにきました。
そして車の後部で「大」の字になってスヤスヤと眠るのかなと思いきや、初めて出会いました。
野性の鹿です。
二頭の鹿はこちらの様子をうかがっていましたが、私と目が会うと、さっと樹海の中へ消えていきました。
「あっ、しかしか、鹿だよ。」という私の叫び声でYちゃんも見ることができました。
それからは、すやすや大の字・・・。
 田貫湖は自然の湖というよりも人造湖に近いそうで、西湖よりもずっと小柄な湖です。
さて、釣りをするかと思ったら、忘れ物がありました。
道具の一部を忘れてきてしまったのです。
 まっ、こういう失敗はよくあること。この景色を楽しまなければ・・・。
私はYちゃんと湖を一周することにしました。
目の前には富士山が「どーん」と構えています。
実は私たちが毎年使っているキャンプ場は富士山を背中にしょった形の場所なので見ることができません。
その分、目の前には西湖がドカーンと広がっています。
 歩いていると、ところどころで釣りを楽しんでいる人がいます。
他愛のない会話を楽しみながらぽつぽつと歩きます。
 「このスピードで生きてみたいな・・・。」私の中にひとつの思いが通り過ぎます。
あまりにも忙しない日々の生活とのコントラストが浮かび上がります。
やがて芝生の整った場所にさしかかります。
明るい緑がさらにこころの中をライトアップしてくれます。
 ふと見ると、ネコがいます。野良さんなら逃げてしまうだろうと思っていたら、逃げない。
目やにで目は汚れているのですが、逃げない。
「やあやあ、のどかな時間をありがとう。」こころでお礼が重なり出てきます。
 約1時間30分ほどの散歩は終了。
歩いて湖を一周するのは初めてのこと、ちょっぴり満足感にひたりながらキャンプ場へと岐路に着きます。
そこではすでに他のスタッフさんたちが朝食をつくり参加者さんたちに振舞っていました。
 我が家のキャンプは生き方自由です。
子どもたちは思い思いに遊びます。「かーごめかごめ・・・」だったり、カードゲームだったり・・・。
その中にあって、男子中学生たちと男子高校生スタッフさんたちは少し違いました。
 「働きたい・・・」その想いがとても強くあったようで、
キャンプ場の方に仕事をさせてくださいとかなり迫っていたようです。
私がオーナーさんのところでお茶を飲んでいると、
そこへ次代のオーナー候補の次男さんがやってきて同じようにお茶を飲んでいました。
すると、「実はKYOWAの子たちに仕事をくださいと言われていたのだけれど、さぼって戻ってきました。
トイレの掃除、いつやりますかってすごいんですよ。」
 いやー、君たち、やってくれますね。あれもこれも君たちから出た生きる道です。
誰にも命令されない。誰にも文句を言われない。どう生きるかは、君たちで決めたんだね。すごい!
そして最終日、大きな団体が帰ります。
その方々が使った約15個ものバンガローの掃除をみんなでします。
小学2年生のMちゃんも炊事場のお掃除です。
「ゴシゴシ、ゴシゴシ」これも特に私は何も言いません。スタッフさんたちが先頭きって動きます。
その姿を見ながら小学生たちはお掃除をしています。
 次々にバンガローがきれいになっていきます。まるでお風呂から出たての赤ちゃんみたいに・・・。
 そしてもっときれいになっていきます。あなた方のこころです。
 お掃除が終わり、さて帰りましょうかというときに、キャンプ場の奥さんからサプライズ、
おいしいおいしいコッペパンサンド・・・。だれもご褒美など求めていない。
ただただ、気持ちのいい汗をかかせていただいただけ。
何よりも、社会人から大学生・高校生・中学生・小学生までが皆こころをひとつにして働いたこと。
それがもっとも尊いこと。
 オヤジ、天国で目を細めてくれているかい。
オレ、何もしていないけれど、
何かの縁でオレとつながってくれている子たちがこんなにも素晴らしい光景をつくってくれているよ。
だからあなたにはただひとつ言いたいことがあります。
「ありがとう」です。こんな私にしてくれたあなたに心から感謝しています。
 さて、君たちに大きな大きなプレゼントが宿りましたね。
ひとの喜ぶ姿が自分のしあわせに感じられましたね。
 またいつもの生活が戻ってきます。
でも、その生活の中に、人の喜ぶ姿をスケッチしていってください。きっと見えるはずです。
「しあわせってこのことなんだね。」
 ありがとう。



第273号
「右しか知らない」
 右しかなかったら、右が良くわからない。これでよいのかなと思うことがあります。
 もし自分がひとりだけお給料をもらっていて、その額が月5,000円だとしたら、
その価値がどのくらいのものなのか知らなくてすむわけです。
たった今、現実というものさしをあてはめたら、「ふざけるな!」と、憤るのはあたり前でしょう。
しかしよくよく考えてみると、知らなかった方が精神衛生上よいかもしれないのです。
 ものごとなんでも、過ぎると気になり、全くなくても気になるようです。
 日ごろより貧乏だと気にされていると、世の中すべてお金お金・・・
お金ばかりが気になって、お金だけを気にする毎日になってしまう。逆です。
余るほどのお金が舞い込んできて、何の不自由もなく生活できるし、何だってすぐ買える。
にもかかわらず、周りのお金持ちを気にしたり、来月の収入を気にしたり、
はたまた年ごとの収入を気にしてみたり、やはり人生、お金のことばかり。
 これをそっくり「成績」に転化してみます。
「おまえは成績が悪い、バカだ。」と、小さい頃から言われ続けてきた子がいます。
その子しかいなければ、成績が悪いことがどのようなことなのか、
バカとはどういう状態なのか、はっきりとはしません。
 さて現実へとそっくり移動します。
「あなたは成績が悪い」と言われてき子は、毎日が成績主義です。気になって仕方がありません。
クラスや学年で、上位を取っている子についても同様、毎回のテストや順位が気になって仕方がありません。
全く同じことをお母さまやお父さまも感じています。
自分がテストをしてきたわけではないのですが、我が子がとんでもない点を取ってきたものなら、
もう気になってしかたがありません。
 親子で「成績成績・・・」、やがてやってくる、子の『勉強恐怖症』
 子どもの場合、まだ社会の中身も知らない状態、成績が良いとどうなるのか、
悪いとどうなるのか、そのようなことを知る由もありません。ただ言えること、親の様子がおかしいぞ・・・。
つまり、親の状態を確認して初めて、自分の将来がひょっとすると危うい状態になっているようだと察するわけです。
もちろん、学校で返却されるテストの点数は、
誰もがご周知の通り100点は良い、0点は悪いのです。
クラスでの人気度にも影響が現れたりいたします。
 そこで今の日本の中の常識を2つほど掲げてみます。
1.落第は悪い → 勉強ができなかったから当然の「罰」として認識されています。
しかし落第は義務教育課程では一般的にありません。どんなに0点ばかりでも学年は進みます。
2.高校卒業後、大学現役合格が良い、1浪2浪は大学に不合格したからと思われがちです。
 さて、場面を日本からフィンランドへ移します。
「ねがいましては」に度々フィンランドが出てきますが、言わずと知れた学力世界一の国です。
と言っても、日本国内で伝統的に行なわれている暗記や選択形式のテスト結果による学力ではなく、
OECD(経済開発協力機構)が行う、各国の10年後20年後を予測するための学力です。
つまりこの先、当該の国がどのようにして世界の中で生き延びていくのか、成長していくのか、
それを予測すべく試される学力調査結果です。
今の子どもたちがどのようにして、目の前の問題を解決していくか、解決しようとするのかを問う内容になっています。
今年も4月に全国一斉に行なわれたものです。(小学6年生・中学3年生対象)
困難が目前に迫っている時、どれだけの子どもたちがそれに立ち向かっていくのかを計るテストだということです。
さて、先ほどのふたつの日本での常識は、フィンランドでは全く逆になります。
1.落第は小学校から発生します。
なぜなら上の学年にあがるための充分な学力がつかないまま学年を進めるのは良くないという観念が常識になっています。
国ではそのような子に対し、手厚い内容のカリキュラムをつくり、すすめています。
そのような子に対ししっかり税金を使っているということです。つまりゆとりのある教育体制が整っているということになります。
2.フィンランドでは、高校卒業と同時にそのまま大学へ進学する若者は少ないのが常識になっています。
なぜなら、大学は自分の将来の一生の仕事を決定する大切な専門の学び舎だからです。
医師のための大学へ行くのであれば、将来は医師としてその人生を全うする確率が高まりますし、
建築関係の大学へ進むのであれば、将来は設計関連に身を投じることになる確率が高まります。
まだまだ世の中のことをしっかりと把握しないままで、自分の身のあり方を安易に決めてしまうわけにはいきません。
ですからフィンランドの高校生たちは、一旦高校を卒業すると、1~2年間、放浪の旅へ出かけたり、
海外留学をしたり、将来の自分探しへと時間を使うのだそうです。
つまり現役合格は特異扱いされるということになります。
どうでしょうか。日本・フィンランド、どちらが理にかなっているのか・・・。
私も日本しか知らなかったら、このようなことも取り上げることはしませんでした。
今通われている学校しか知らないで、その中で成績が上がったの下がったのと、
一喜一憂していることがどのようなことなのか・・・。
さて、きょうも勉強を楽しみましょう。ここは楽しむ勉強しか知るところ・・・?!



第272号
「抗生物質と漢方」
 目の前にいつのものなのか、新聞の切抜きがあります。よほど目に止まったものであったことは確かです。
 題目は「体罰と漢方薬」。元中学校校長であった田中章博さん(61)は、
大阪府摂津市の中学校を回りながら、部活指導にあたっている若い教師の相談に乗っているのだそうです。
サッカーの日本代表であった本田圭佑選手などを指導した方です。
田中さんは36歳の時、日本サッカーの父と言われたドイツ人のクライマー氏に会った際、訪ねました。
「どうしたら勝てますか・・・。」すかさず返事が返ってきました。
「あなたの勲章は勝つことではない。育成です・・・。」
その言葉を胸に、その後、本田選手を輩出することになったそうです。
 田中さんが自信をもって言われること・・・「今の子に足らんのは失敗体験の方だ。」
 全く同感でした。どうしても成功体験ばかりを追い求めてしまうのが人情でしょうが、
時間を経て「良かった」と感じられるのは、はたして成功体験なのか、失敗体験なのか・・・。
 そしてその記事の最後の部分に書いてある文をそのまま記します。
「勝つためにすぐ効く抗生物質のように体罰を加える者がいる。教育はゆっくり効く漢方でないと・・・。」
 今の文をそのまま『勝つ』を『合格』、『体罰』を『強制』に変化したものを記します。
 「合格するためにすぐ効く抗生物質のように強制を加える者がいる。教育はゆっくり効く漢方でないと・・・。」
 ぴったりだったのです。スポーツは『勝つ』。勉強は『合格』。
まさにその中に隠されているのは、真の教育とはかけ離れたものなのではないか・・・。
 本来の勉強の目的は学ぶことの楽しさを伝えること。子どもたちの心がどんどん前向きになっていくこと。
生きることの素晴らしさを感じること。そして何よりも大切な原点・・・
地球上の様々な生物の中にあって、『ひと』として生を受けたことにしあわせを感じること。
これは家族に深い愛情の念を抱いていることにつながります。
 お母さんに会えて良かった。お父さんに会えて良かった。
おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだいたちに会えて本当に良かったと思うことです。
 さて、これを目にされている方々のご家庭は、はたして・・・・。
 ひょっとして減点ばかりで出来上がってしまったお子さんにしてしまってはいないでしょうか。
ここはダメ、ここもダメ、マイナス面ばかりが目に付いてしまって、なんとかその部分を修正しようと、
イライラばかりがつのってはいないでしょうか。
その筆頭が「成績」なのでしょうが、成績を上げるべくついつい口から出てしまう「勉強しなさい。」
 これひょっとすると、冒頭の体罰に近いものなのかもしれません。
なぜならそれでもやらない場合、強制的に進学塾などに通わせるかもしれないからです。
そこで待ち受けているもの・・・
テスト、宿題、評価。子どもたちにとって、この3つはすべて体罰に等しいダメージを残してしまうものだと思います。
 「現実を考えると・・・。」と、思われる方は多いと思います。
ここで言う現実とは、周りのことだと思います。
日本の東京に隣接しているこの地域。
周りはどんどん中学受験をし、周りはどんどん有名大学目指して出費を重ねる・・・。
この現象、実は子どもたちが発する、皆スマートフォン持っているから私にも買って、
皆ゲーム機持っているから僕にも買って、と同じ気がいたします。
 目を海の向こうへ転じます。フィンランドでは塾が無いのだそうです。
小学校・中学校を通じて、『学ぶ』の基本スタイルをしっかり習得していますので、その必要が無いようです。
学校は学ぶところ、ですから授業中寝てしまうことは非常に珍しいことになります。
ある日本人がフィンランドに留学した際、あまりにも授業内容がわからなかったので、
ついつい居眠りをしてしまったそうです。授業終了後、クラスメイトたちは珍しそうに見つめていたそうです。
一方、教師たちは教えることが仕事ですから、それ以外のことは極力少なくなっています。
子どもたちとのコミュニケーションを大切にし、
授業終了後は教師と生徒がいっしょにそのまま校門を出てゆくことも珍しくないようです。
教育の基本スタイルはどちらが自然体なのでしょうか。
日中、学校でしっかりと居眠りをし、夜、塾で必死にペンを走らせる・・・。
学校は学ぶところ、一旦学校を出れば将来を見据えた自身だけの個性豊かな時間を消費する。
部活に入った以上は勝たなければ意味が無いのでしょうか。
勉強する以上は合格しなければ意味が無いのでしょうか。
双方ともに抗生物質のような気がいたします。
その子のこころをじっくりと見つめてあげる。そっと目線をそろえて肩をならべてあげる。
こころから発する声をじっと聞いてあげる。生きる意味を語り合う。しあわせの意味を語り合う。
気がついたら「ありがとう」の声がお互いに発せられる。
そしてなによりも尊いプレゼントが子からもたらされる。
『笑顔』です。知らずのうちに、笑顔を摘み取ってはいないでしょうか。
笑顔を摘み取ることは、道端に命がけで精一杯咲いている一輪の花を、
何の理由も無く摘んでしまうことと同じではないでしょうか。
さあ子どもたち、君が忘れかけていた『笑顔』を取り戻そうね。
縁あって私のところへ来た子たちからこぼれる言葉、
「ここで勉強するとホッとする」(ニコッ!)、ありがとね。




第271号
「きめつけ」
 勉強に苦しんでしまう子どもたちに多く見受けられるものに、「きめつけ」があります。
例えば、かけざんは必ず大きな答えになる。わりざんは小さくなる。たすと大きくなる。ひけば小さくなる。
私たちの生活の中で、極々当たり前のことのような世界です。
しかし、突如、小数や正負などが現れ、そのルールは微塵に打ち砕かれます。
 10×5=50であったのが、10×0.5=5・・・子どもたちにとって、ひとつの分かれ道にさしかかります。
学校では、図を用いてその理由を説明していますが、
ここで子どもたちの性格が大きく左右していると私は考えています。
 新しい世界の物語なのだとわきまえている子たちには、すんなりと入っていきます。
しかし、そんなはずはない、どう考えてもかけるってことは大きくなるはずだ・・・。
固執した感情がしっかり壁となって立ちはだかります。
 そうこうしながら悶々とした時間を過ごしているうちに、授業は終了します。
 どちらも真剣に考えています。まじめに時間を使っているのです。
ここで迷うことが悪いことなのだとしたら、世の名だたる研究者たちは、すべて悪い方々になってしまいます。
授業後に行なわれるテスト・・・この結果で良い悪いが判定されてしまうことが、
子どもたちの勉強嫌いをさらに助長してしまいます。
指導する側が、その子の感情の動きにまでしっかりとアンテナを張る必要があります。
時間をかけながら、少しずつ理解していこうとするタイプの子たちは、ほとんどが犠牲者になってしまいます。
 花粉症と同じで、その子その子で症状の出かたは違うのでしょうが、
「わたしはバカなのだ」と、自分を決めつけてしまう子がいます。
つまり、間違えても間違えても、根気よく理解を重ねていく子もいますが、
間違いが重なるたびに、自分のこころの中のコップの水がどんどん増えていき、
あっという間にいっぱいになってしまう。そして次の瞬間、
「わたしはバカなのだ」というとんでもない決めつけ症状が現れます。
つまり花粉症の発症と同じです。その後は常に弱気一遍等な感情が全てを支配してしまいます。
きっと私はどんな勉強をやってもダメに違いない・・・。
 ある新聞に載っていた記事の中に、いじめに関するものがありました。
「人のこころはコップに満たした水と同じなんです。
このくらいでは死なないと思って、小さないじめの言葉を言ったとします。
でも、もう相手のこころがいっぱいだったら、その言葉が最後の一滴になってしまうかもしれません。」
 私はその記事を読んだ時、勉強で「こわいよー」って、
毎日のように苦しんでいる子たちのこころを見たような気がしました。
まさに、『死』にまでは行きつかなくても、毎日のように苦しんでいる子たちがたくさんいるということを。
 勉強の世界で、コップから溢れ出てしまった子たちは、毎日のように恐怖に包まれながら生活しています。
ひとたび教室から出れば、跳びはねて元気一杯に振る舞う子たち・・・。
 勉強の世界で、コップの水を溢れさせないようにするには・・・。
テストという評価をなくすことです。合えば良い、まちがえれば悪いといった定義を廃止すべきだと思います。
 大切なことは、その子がその算数の勉強をしていた時に、どれだけ真剣であったかというこころの姿勢です。
わからなければ真剣に「わかりません」と発言すべきだと思います。
なぜなら真剣に取り組んで出てきた「わかりません」は、世の大科学者たちが歩んできた道そのものだからです。
 けっしてあきらめない、へこたれない。
そんなこころの土台を築いてあげることが真の教育者のあるべき姿だと思うのです。
 そして、ご家庭で様々な言を発していらっしゃるお母さま方にも、同様に教育者としての言を求めたいと思います。
 もうお子さんはコップ一杯になってしまっているかもしれません。
そんなお子さんに、「あなた、こんなやさしいところもできなかったの、バカじゃないの。」
「何回同じこと言わせるの、早く○○しなさい。」「今度成績下がったら、承知しないからね。」
 春休み中、義援金講習に多くの小学生が来てくれました。
それぞれが全く違うバラバラなことをしています。中には九九が原因で違ってしまった高学年の子もいます。
5年生であっても、2ケタひく1ケタの筆算をしている子もいます。
でも誰ひとり、その現場を見、相手を傷つけるような言動をする子はいません。
一題一題、私の手書きでやってくる子も真剣です。その瞳から聞こえてくるものがあります。
「ねえ先生、ここが学校だったらいいな、ここでこうやってこつこつと向かっていたいな。」
 どうぞ安心してください。ここはあなた方がこころからニコニコして向かうことのできる場所ですよ。
勉強ってね、わかることの楽しさを覚えることなんだよ。
勉強はね、誰も気づかない、なぜなんだろうって思うことがあったら、とことん向かっていい世界なのだよ。
教科書どおりに決められた時間で覚えたり、競争させられたりする世界ではないのだよ。
 さて、きょうも「きめつけ」で苦しんでいる子たちを助けてあげられたらいいな。
だって、すごく嬉しそうな表情をするからね。
そしてみなさんも、そんな子たちをいっしょに助けるお手伝いをしてくださいませんか。
そんな学校に、きっといじめなど無いにちがいないから・・・ありがとうね。





第270号
「理想との距離」
時折、生徒に生徒を指導してもらうことがあります。
ここでは指導法がマンツーマン方式を取っていますので、先ほど指導したと同じ内容のことを、また数分後に指導することが多々あります。
ある時、私がB君に、ある問題の解き方を指導したとします。
B君、しっかり理解できたかな・・・
と、不安を感じるようなときには、わざと「○○君、B君に教えてもらってよ、すっごい(イヤミ100倍)教え方上手だよ。」
といった具合に任せることがあります。その瞬間、指導を任されたB君は表情が一変、
今までのリラックスした表情が、危機感を帯びた表情に激変します。
「どうしよう、教えられなかったらどうしよう。」
本気スイッチにモードが変わります。「あのね・・・・・。」
実は最も学んでいるのはB君本人、指導するには、
その問題の全体像を把握できていないと相手にはまったくと言ってよいほど伝えることはできません。
そしてその瞬間、B君はとてもよいこころの状態になります。
まず、相手に対し、敬意を持った位置に立ちます。教えてあげるからねといった上から目線的な気持ちはまったくありません。
それどころか表情はすでに「ごめんなさい」状態になっています。
この時点で、自己中心的な感情は100%消え失せ、目の前の人のこころを必死に覗こうとしています。
「わかってくれているのかな・・・。」
片や、指導を受ける側の子は、逆に申し訳なさそうな表情を浮かべます。
「何とか理解するから、そんなに緊張しないでね。」といった感じで、必死に聞き取ろうとします。
これも普段学校で授業を聞いている時のこころの状態とはまったく違っています。
この時点で両者には、共通したものが通っています。
『思いやり』です。互いに相手を敬うこころです。同級生同士でなかったとしても二人の表情は同じです。
そして無事伝わったとします。B君は、もう一生その内容を忘れることはないと思います。その緊張感をご想像ください。
つまり最も勉強をしたのはB君なのです。
このようなこころの状態で『学び』を常態化できていたら・・・。
助け合う勉強です。
その逆を並べてみます。
A君がB君に、ある問題の解き方を聞いてきました。
しかし、B君はあり乗り気ではありません。
なぜなら定期テストが近づいてきているため、結構難易度の高い問題についての質問には抵抗があったのです。
「この問題、オレ、解くのに2時間かかったのに、今、こいつに教えたとしたら・・・。」
あとはご想像におまかせします。
常に競争が常態化している空間では、このような心理は極自然なのかもしれません。
ここでは、テストなし、競争なし。誰もが自由に自分を真正面から見つめながら取り組みます。
ただし、そうではない子もいます。まだここへ来て間もない子です。
命令される、宿題がある、テストがある。
そのような環境の中で過ごしてきた子たちは、そろって勉強に対する恐怖心を身につけています。
もうひとつ・・・勉強を嫌いになっています。
ですから、勉強の中で助け合うなどということは考えもしないことだと思います。
自由に取り組むことを知ったとき、その子は間違いなくある方向に向かいます。
『楽』です。嫌なことはやらなくて良いわけですから、楽なことをします。目の前の自分しか写っていない状態です。
ここへ長く通っている子たちの行動です。常に歩もうとします。
自分に欠けている所を自ら探し、取り組もうとします。分からなければすかさず質問。
取り組み方も自分流、声を出しながら向かう子、じっくりと静止状態になる子、すぐさま質問に現れる子。
それぞれが個性を持った生き方をします。
わたしはそれが学びだと思っています。自分らしさの発見です。
ぼくには私には、そんな生き方しかできません。ある意味頑固なのかもしれません。
しかしある意味、もうその若さで自分のレールをしっかりとした足取りで歩いています。
自立です。
学校制度の中では、こころの成長には評価はありません。
自分はどうあるべきなのか。自分はどのような人生を歩もうとしているのか。
自分にはこんな目標がある。
中学3年生であれば、ほとんどが高校入試にこころ全体が覆われてしまうときに、
「高校入試は自分にとってのひとつの小さな門、どんな門でもくぐったら、またその門の先を目指して歩み続けるだけさ・・・。」
そんな涼しい表情が伝わってきます。こころの成長・・・評価5です。
そしてB君にもどります。やっとのことで教え終わった後、目の前の子から素敵なプレゼントをもらいます。
「ありがとう」
二人の間に深い思いやりが育った瞬間です。
今、この教室では、6年生が中学3年生の数学を学んでいます。
周りからは羨ましい目線が飛び交います。
そしてある中3の子がひと言「Aちゃんが高校数学を教わったら、わたし教えてもらおう!」
そんなあったかい空気をこわしたくありません。
だからこれからも、競争なし・・・。ありがとね。



第269号
「野生の理」
 『自分の人生は、自分のもので、どうするかは自分で考えなくてはいけない』
 フィンランド教育が書かれている本の中の一節です。
格差を教育の現場からなくすことで見えてきた、子供たちの中にある極普通の考え方です。
 東日本大震災から丸2年が経ち、報道各局が被災を受けた方々に、ひとことを書いていただくシーンがありました。
「歩みを止めない・・・」「ただ前を向いて歩くだけ・・・」 この2年間、必死に生きてこられた方々が口々にされる想いが表れていました。
 どう生きるかを自身で想う、それは人が人であるための最低限必要な当たり前の責任であるように思えてなりません。
 その少しあと、他の局で就職活動についての番組を目にしました。
ある大学4年生(男子)の取り組みをドキュメンタリー的に紹介していました。
その方の就職に対しての条件が、「自宅から通勤可能なところ」でした。
それを見、わたしは心の中に冷や汗が流れるのを感じました。どことなく目がうつろな雰囲気、
活気がなく感じるこの青年に、局の方々が真剣な口調で語りかけていました。
 どこがおかしいの・・・とお感じになる方もあるかと思いますが、
私の中では自宅から離れられないことを条件にした就職活動に、『甘え』しか浮かんできませんでした。
そこに介護が必要な方がいらっしゃるとか、離れられない現状があるのならわかりますが、
日本における就職活動のひとコマに、同じ日本人として恥ずかしい気持を味わいました。
 先に書かせていただいた『自分の人生は・・・』は、フィンランドでは小さい頃から普通に行きわたっている感情だそうです。
教育の現場で当然のごとく教師から、親からそそがれる教えになっているそうです。
 よく「ねがいましては」に書かせていただくことの中に、『自身を真正面から見つめる勇気を持つ』があります。
だれの援助もなく、本気になる必要があると思っています。
 日本ですと、ほぼ100%に近い子どもたちが勝ち負けにこだわります。
どうあるべきかは、勝てばよいわけです。かなり単純に自分の生きるべき道ができあがります
。中学生でしたら、目標とする高校に合格すればよいわけです。
しかし、中学校側との3者面談では、かなり高い確率で目標校を下げるよう指導されるケースが多いようです。
 合格は勝利、不合格は敗者。真に問われるべきは、その子の目標としたものがあれば、
その意思を変化させることなく、目標に向かってどう生き抜いたか・・・そこに人としての価値があるわけであり、
合格したから勝者であるという、ある種の固定観念は捨てるべきであると思います。
 合格すれば、そこで歩みを止めてしまいます。不合格になれば、
さらに自身を高めようと真正面から自分の見つめ直しを行うと思います。
そして味わった悔しさをバネに、すぐさま歩みを開始すると思うのです。
自分にかけていたものは何なのか、自分に必要とされるものは何なのか。
つまりどう生きてゆくべきなのかを真剣に考えることになります。
 「このように生きなさい。」という命令だけでは、いざ失敗が訪れたとしても、その責任を他人に転嫁してしまいがちです。
それが今の日本ではなりがちだと思っています。杓子定規な世の中といわざるを得ません。
仕方のないことなのかもしれません。
 自分はどうあるべきなのか、このことを真剣に考えることから離れていってしまうしくみが出来てしまっている。
 大切なことは、自分はどのような色を持っているのか。
自分はどのような道を歩むべきなのか。そのことをかなり小さい頃から考えるトレーニングをする必要があると思います。
自分の考えで、自分の道を、ただひたすらに歩んできた。
 小田和正さんの詩にも似たものがあります。
『自分の生き方で 自分を生きて 多くの間違いを 繰り返してきた』
 そして最後に大切なものを見つけます。
『いちばん大切なものは その笑顔 あの頃と 同じ』
 家族のあり方に深く根ざしたものを見つけました。
 我が子を自らの生き方で生きさせてあげること、逃げを打っているときにはしっかりと叱咤激励し、
そして多くの間違いを重ねる我が子を許容すること、そんな我が子を見ながら次第にわかってきた大切なこと、
それは我が子が生まれたばかりの頃、見せてくれた笑顔。
 家族の中に必要なもの・・・笑顔。我が子が必死に前を向いて歩もうとする姿。
それが度重なる失敗であったとしても、誰もが認める真剣な歩みであったのであれば、
そっと目を細くして見守る勇気をお持ちいただきたい。
その勇気こそ子を持つ親の義務ではないでしょうか。
その勇気を感じるとき、家族が笑顔でいられるときではないでしょうか。
 ある子は高校入試が終わっているにもかかわらず、高校の合格発表が終わっているにもかかわらず、その問題を解き続けています。
真剣に生きようとする姿がそこにあります。
その姿こそが今の日本に欠けている姿です。その姿をどうかご両親に見ていただきたいのです。
 フィンランドの子どもたちからこぼれてくるひと言・・・
「だって、先生にとっては他人事だからね」・・・素晴らしいひと言です。
その心の裏側にあるしっかりとした柱・・・「自分のために学ぶのはあたりまえだから・・・」
 子どもたちよ・・・学ぶって楽しむものなのですよ、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、
「えへっ、またやっちゃった、さあもう一回やってみよ・・・。」
そんな姿をこれからも見させてください・・・ありがとう!



第268号
「輝くとき」
 年が明けて、俄然受験生たちの表情に緊張感を感じるようになりました。
数年前より千葉県の入試制度が変更になり、特色科選抜
(生徒の得意とするものを選考基準にする・・・部活動で培った技術など)がなくなり
、一律5教科での受験が必須となりました。前期・後期の2回に渡って行なわれます。
前期で合格してしまえば、後期は受験しなくてもよく、前期で落ちたものは、後期で受験校を再度選択し受験します。
もちろん変更しなくても結構、変更しても結構。
 目的を持って取り組むことは大切なのですが、勉強が、学ぶことが競争の材料になってしまうことに、私は違和感を持っています。
 先日、某テレビ局で中学入試当事から10年後の追跡調査をしていました。
ごく限られた方の追跡ですから、データとして捉えることは難しいと思いますが、興味深い内容でした。
ある男性は24歳、開成中学受験成功、とんとん拍子に有名大学から一流企業へ、しかし半年で退職。
社会に対する認識不足だとご本人の言。あるお母さまからの投稿も紹介されました。
大学へ入ってから意気消沈、結局退学を余儀なくされ、今その方は無職だそうです。
 合格とは何なのか、成功とは何なのか、考えさせられるものでした。
 今年は当教室、開塾始まって以来最も輝いていた受験シーズンでした。(まだ終わってはいないのですが・・・)
 質問、質問、質問・・・私は Hello! と、元気よくいきたいのですが、実はヘロヘロ・・・。
そのヘロヘロが小気味良い感動を与えてくれます。学ぼう!前進しよう!
という気持ちがひしひしと伝わってきます。
 勉強というと、講義を聴いて学ぶ、という図式が当然のように感じられますが、
ここでの勉強は、自分で自分だけの道を歩む、その過程で出てきた質問をすかさず聞くというスタイルです
。ですから、入試問題につながる複合型の問題になりますと、もうこれが「・・・・・」となるわけです。
一番鍛えられているのが私になるわけです。おかげさまでどんなに年を重ねても「ボケ」なくてすみそうです。
 音読をしながら、重要な部分は書きながら・・・。
時間が来ているにもかかわらず、誰もやめようとしない緊張感のある空間。
おかげさまで予定の時間を1時間オーバーすることもしばしば。
 そして初めて出ました。学校休んで朝からここで勉強さん。もちろん私は冗談のつもりで言っていたこと。
「お母さんが許可すれば来ていいよ。」・・・・・「お母さんがOKだって!」と、本人。(学校の先生、ごめんなさい)
 「どうしても学校の教室だと集中できないから・・・。」「はいはい!」と、私。
 入試が近づき、毎週のように受験生対象の無料ランチが続きます。
昼食を終えると、誰となく声を出します。「よし、○○時から始めよう!」私はただの質問受け屋さん。
 彼らは歩こう、とにかく歩こうとします。それが生きよう、とにかく生きよう!に映るのです。
 失敗、いいじゃないか。壁にぶつかってなかなか進まない、いいじゃないか。
ぶつかって動けないのは、前進しようとしているからわかること。
後ろ向きになっていたら、壁だということもわからずじまいです。
 彼らから徐々ににじみ出てきたあるひとつの「こころ」があります。
 そのままこの歩き方を続けていたい。
 良かったね!君たち、本当の本物の「学び」を見つけたようですね。
吸収力はゆっくりでも、勉強が持っている本来の楽しさを感じ始めたようですね。
やらされる勉強から、やろうとする勉強へシフトチェンジできたようです。
 2年前に天国へ旅立ったJちゃんは、高校が決まってからその年の最初の定期テストで学年1位をとりました。
取りたくて取ったのではない。学ぶことの真髄を感じることができただけだと思っています。
誰と比べるわけでもない。誰を意識するわけでもない。自分の中に、ただ歩いてみたいという気持ちがあっただけ・・・。
 もう数人の子たちが、そのまま受験が終わっても今のままの歩みでいたいと宣言しています。
 良かったね!
 どうぞ思い切り自分だけの学びの空間を旅してください。ある子は自分だけの教科書作りに勤しみそうです。
ある子はPC技術を身につけたいと思っています。ある子は高校数学を先取りしたいと考えています。
ある子は取れずにいたそろばんの級を目指しています。ある子は今、お天気にはまっています。
気象についてのめり込んでいきそうです。
 競争・評価・成績、そのどれもから100%開放された世界は、あなた方に学ぶことの楽しさを感じさせてくれました。
そしてあなた方のすべてに与えられたプレゼントがあります。
 「歩もうとするこころは無限大である」ということです。
 やりなさいと命令されてきた勉強は、ある時点で歩みを止めてしまいます。
「合格」「やったー!思い切り遊ぶぞー!」まったく向かわなくなります。
でもあなた方は、歩みを止めることなく歩き続けようとします。
 あなた方の生きるぞ!生きてやるぞ!というポジティブを、何より目を細くしてらっしゃる方々がいます。
 そうです。あなた方のご家族です。
結果はどうであれ、生きようとしている我が子を見るたびに、目頭を熱くしない親はいません。
本当の親孝行を知ったようですね。ありがとね。


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